明治維新と代官支配の終焉

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慶応三年(一八六七)一〇月の大政奉還や一二月の王政復古以後も、関東の代官は引き続き徳川直轄領支配を続けるが、鳥羽伏見の敗戦後の慶応四年二月以降、東征軍(とうせいぐん)が東海道を江戸へ向かうのに呼応して、代官も維新政府への帰順を開始し、引き続き関東の地域支配に従事する。最も早く行動したのは江川英武で、慶応四年正月六日には旧幕府歩兵奉行と伊豆警備に従事するが、二月三日には、遠江中泉(現静岡県磐田市)・駿河府中(ふちゅう)(現静岡県静岡市)の代官とともに、維新政府に勤王証書(きんのうしょうしょ)と支配地域の地図や人別帳を提出し、以後、朝臣化運動を展開する。同月二一日には東海道官軍の駅逓(えきてい)や糧食の担当を命じられ、三月には京都に行って管轄地域のようすを維新政府へ伝え、維新政府より伊豆の管轄を命じられている。地方支配に関しても、慶応四年二月七日までは幕府代官として触を伝達する一方、三月一三日からは「官軍人馬賄御用掛(かんぐんじんばまかないごようかかり)」として触を伝達している(史料集八、二九九頁)。
 小平市域を支配していた最後の江戸廻り代官松村長為も、同年四月一日に天皇への忠誠を誓う勤王証書を東海道総督にあてて提出している。四月七日には、維新政府より、最後の馬喰町御用屋敷詰代官の佐々井久保と大竹左馬太郎、江戸廻り代官の松村、その他関東代官が、関東の維新政府直轄領(旧幕府領)支配に従事することを命じられる(『復古記』)。この仮管理が正式な支配に変わるのは江戸城開城後、諸藩や旗本の処分が決定した後の慶応四年六月のことである。
 六月二〇日、江戸廻り代官松村長為は、維新政府より武蔵知県事に任命される。この際、武蔵知県事は計三名(ほかに桑山郊(くわやま)〈もと旗本〉、山田政則(やまだまさのり)〈忍藩士〉)が任命されており、武蔵国の幕府直轄領のなかで、江戸廻り代官支配地域と馬喰町代官支配地域(明治維新期、馬喰町代官は二人)を、維新以前と同様三人の知県事で支配することになる。江戸廻り代官の支配地域は後の品川県(しながわけん)であり、他の二人の支配地域は小菅県(こすげけん)と大宮県(おおみやけん)となった。
 こうして、明治維新を挟んで地方行政官として多摩地域を管轄した松村であるが、同年八月に、病気願いによって知事を辞め、後任として佐賀藩士の古賀一平(こがいっぺい)が赴任する。ここで幕府代官からの人的系譜が断たれたこととなる。ただし、支配の引き継ぎにあたって、松村長為役所が保持する幕府代官としての諸書物は古賀に引き継がれており、古賀は江戸廻り代官支配を引き継いだこととなる。
 一方、江川支配地域は、その後韮山県として、引き続き江川役所の支配を受けることとなる。明治二年(一八六九)に管轄替えがあり、野中新田と大沼田新田が品川県に編入される。この時点で、鈴木新田・野中新田両組・大沼田新田は品川県、小川村・小川新田・廻り田新田は韮山県となる。役所や文書、人員、仕組みを引き継いではじまった関東の維新政府直轄府県支配であるが、少人数の組織で広大な地域を支配する直轄府県支配は、トップ(代官-知県事)の個性が強く反映される。幕府の経済官僚-牧民官としてキャリアを積んだ者が就任する関東代官や、百年以上の蓄積を持つ江川に対し、佐賀藩の経済官僚が、維新政府の重税方針を東京に持ち込んで行った品川県政は多くのトラブル(太政官札強制兌換・御門訴事件)を招来していく(第三章第七節)。