コラム 村人に慕われる代官たち

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 代官というと、「悪代官」の呼称にみられるように、一般的には人びとを圧政と搾取で苦しめる庶民の敵と思われることが多い。しかし、とくに一八世紀中盤以降になると、名代官と呼ばれる代官が現れるようになる(村上直『江戸幕府の代官群像』)。名代官の異動に際しては、領民より大規模な異動撤回運動が行われるが、川崎定孝の場合も、異動が決まった寛延二年(一七四九)、撤回を求める嘆願書が、川崎の支配地域五五か新田(小川村を除く小平市域のすべての村を含む)から出されている。嘆願書では、川崎の支配であることによって地域の成り立ちが保証されており、他の代官では新田は再び困窮に陥り相続ができなくなると主張し、新田が成就するまでのあと二・三年間だけでも、川崎の支配が続くよう嘆願している。ここからは、地域の人びとは、川崎を代官一般や幕府一般ではなく川崎個人としてみており、その個性によって実現していた施策の継続を求めていることがわかる。川崎の引き留め運動は、多摩地域ではおそらくはじめての代官引き留め運動であり、新田の成り立ち、人びとの在り付きといった、共同体の存立そのものに、川崎が深くかかわっていたことがわかる。
 川崎はその後、美濃本田・関東・石見大森の代官を歴任し、明和四年(一七六七)には勘定吟味役兼諸国銀山奉行にまで昇り詰め、この年没する。任地だった場所では、死後、多くの慰霊施設が建立され、武蔵野新田地域では「川崎大明神」として神格化されている。小平市域周辺は関野陣屋と隣接していたこともあって、①寛政七年(一七九五)真蔵院(小金井市)に鈴木新田深谷定右衛門と小金井新田関勘左衛門を願主に、関野陣屋周辺の廻り田・貫井・是政・小金井・田無の、玉川上水流域五か新田が発起人となって「川崎平右衛門定孝供養塔」を建立②同年に観音寺(国分寺市)に、中藤新田・谷保新田・高木新田の三か新田が、川崎を祀った宝筺印塔(ほうきょういんとう)を建立③寛政一〇年に小川村の妙法寺に(明治四二年に国分寺村に移転)、武蔵野新田七四か新田が「川崎・伊奈両代官謝恩塔」を建立④文化七年(一八一〇)に、鈴木新田の海岸寺に、鈴木新田名主深谷定右衛門を中心に、府中や村山などより広域の人びとが、「小金井桜樹碑」を建立するなど、川崎を偲び祀る施設が四基確認される。川崎が最後に小平市域を支配していたのは寛延二年なので、それから半世紀をすぎたのちも、川崎は武蔵野新田の人びとに思慕され続けるのである。
 川崎の顕彰施設のうち、川崎が思慕され続ける理由の一端をうかがわせるのは、妙法寺の「川崎・伊奈両代官謝恩塔」である。この謝恩塔は、伊奈氏もあわせて祀っているところに特徴がある。伊奈氏は小平市域の支配を川崎から引き継ぎ、以後五代、半世紀にわたって、小平市域を管轄する。伊奈氏についても、小川村の村人が「伊奈半左衛門様御儀私共甚御大切に存じ候」と述べており、たいへん慕われていたことがわかる。
 この謝恩塔は、七四か新田の出百姓たちから、計五両の寄進を受けて建立された。台座には「武蔵野養料組合」七四か新田の名前が刻まれ、台座内には「南北武蔵野新田養料金始末書」とする、養料金制度の沿革を記した帳簿が格納されていた。つまり、この謝恩塔は、養料金とのかかわりで建立されたのである。養料金制度は、川崎によって、開発期の基盤確立のために公金を元金として導入され、それを引き継いだ伊奈により、恒久的な百姓撫育策として確立する。養料金の支給を受けているという事実は、武蔵野新田にとって、「養料金を支給されなければならないほど生産環境が厳しい地域であり、ゆえに、諸役を負担することは不可能である」という、負担回避の正当性・論理をともなった武蔵野新田の由緒-自意識となっていく(第三章第六節)。しかし、一方で武蔵野新田のこうした特別待遇に対し、周辺村落は不公平感を抱いていた。さらに、養料金の庇護者であった伊奈氏が寛政四年に失脚すると、制度は幕府勘定所内で継承されるものの、武蔵野新田の待遇見直しが、幕府内でも、多摩地域のなかでも問題となるのである(大友一雄「新田開発と民衆意識」)。
 そうした状況のなかで建立されたのが、この謝恩塔である。すなわち、養料金惣代・割元を勤めた榎戸新田名主榎戸源蔵の音頭のもと、榎戸新田の檀那寺であり、伊奈氏の元支配地域でもある小川村の妙法寺に、「武蔵野養料組合」の出金と同意により建立されたこの謝恩塔には、武蔵野新田が川崎・伊奈の施策である養料金なしには存立しえないとの主張が、代官を顕彰するというかたちで現れているのではないだろうか。