江戸幕府の拠点である首都江戸の周辺には、将軍家と御三家(尾張家、紀伊家、水戸家)の鷹場(たかば)が設けられていた。鷹場とは、鷹狩(たかがり)(放鷹(ほうよう)ともいう)を行う場所であるが、江戸周辺では、より広く「鷹狩に関する制約を受け、負担を負う村々・地域」「鷹場役人の管轄下にある村々・地域」と定義される(大石学『享保改革の地域政策』)。
徳川家康は鷹狩を好み、天正一八年(一五九〇)の関東入国後、東金(とうがね)(現千葉県)、忍(おし)、川越(かわごえ)、鴻巣(こうのす)、越谷(こしがや)(以上現埼玉県)、中原(なかはら)(現神奈川県)など、江戸の外郭地で、さかんに鷹狩を行った。これらは、江戸から半径約一〇里(約四〇キロメートル)の要衝地であり、徳川氏と対抗する里見氏や佐竹氏などと対峙(たいじ)する場所でもあった。
慶長八年(一六〇三)、家康は将軍になると全国の有力大名の鷹狩を禁止し、また翌九年には公家の鷹狩を禁止し、放鷹権を独占した。将軍家の鷹場を御場(おば)、拳場(こぶしば)などというが、家康は御三家や一部の大名に鷹狩や鷹場を許可するなどして、全国統一者としての権威を高めたのである。
寛永五年(一六二八)一〇月二八日、三代将軍家光(いえみつ)は、鷹場に関する五か条の厳守事項と、それを布達する五四か村を書き上げた鷹場法令を発布した。内容は、幕府が許可しない者の鷹狩の禁止や、村々にあやしい者を置かないことなどであった。また、寛永一〇年二月一三日には、江戸から五~一〇里の地域で御三家に、その後徳川一門や諸大名に鷹場が与えられた。幕府の鷹場には、鷹の訓練師である鷹匠(たかじょう)、鷹場を管理する鳥見(とりみ)、鷹の餌を集める餌差(えさし)などの役人が任命され、家光の時代に、近世の鷹場制度の基礎が形成されたのである。こののち、幕府鷹匠の訓練場で関東に広がる捉飼場(とらえかいば)、将軍家鷹場内で徳川一門や有力大名に臨時に与える鷹場である御借場(おかりば)なども設けられた。
江戸周辺の鷹場は、全体として、幕府領・大名領・旗本知行所・寺社など、領主支配の違いをこえて、鷹場としての規制と負担を負い、治安維持機能の一端を担うとともに、鷹場村々を江戸城・将軍家および御三家などと直接的に結びつける役割を果たしたのである。