尾張家鷹場

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江戸の西部に広がる多摩郡には、御三家の一つ尾張家の鷹場が設けられた。尾張家鷹場は、「尾州様御鷹場御定杭(さだめくい)場所書上帳」(史料集二一、六頁、以下「書上帳」と略す)によれば、寛永年間(一六二四~四四)に尾張家初代当主の徳川義直(よしなお)が入間郡(いるまぐん)内の坂戸(さかど)(現埼玉県坂戸市)と比企郡高坂(ひきぐんたかさか)(現埼玉県東松山市)に鷹場を与えられたことにはじまる。ただし、幕府の記録『徳川実紀(じっき)』寛永一〇年二月一三日条には、「尾紀水三卿に放鷹の地をくださる」(第二篇、五八五頁)とあり、寛永一〇年のこととする。
 寛永年間、尾張家当主や世嗣(よつぎ)(世継ぎ)などの鷹狩りの拠点として、入間郡扇町屋村(おうぎまちやむら)(現埼玉県入間市)に御殿(ごてん)が設けられた。のち御殿は、同郡所沢村(ところざわむら)薬王寺(やくおうじ)地内(現埼玉県所沢市)、さらに多摩郡前沢村(まえさわむら)延命寺(えんめいじ)地内(現東久留米市)へ移動した。延宝四年(一六七六)には、「書上帳」によれば、鷹場の西北部には谷や峰が多く、数度山狩りをしたものの冬鳥の居付きが悪いため、遠い山を返上し川越藩領内で二四か村を受け取り(史料集二一、二二頁)、これにともない、清戸村(きよとむら)(現清瀬市)に御殿を設けた(史料集二一、二二七頁)。
 
江戸周辺鷹場概念図
図1-72 江戸周辺鷹場概念図

 延宝七年九月一一日、小川新田村(のちの小川村)が、尾張家鷹場の規定である鷹場法度(たかばはっと)を、尾張家鳥見(とりみ)と田無村(たなしむら)(現西東京市)の鷹場預り下田孫右衛門にあてて提出している。内容は、第一条は鷹場で鷹を使う者がいたら、村が預っている札と照合して確認する、第二条は鷹狩の際は道・橋・脇道を整備する、第三条は鷹狩りの際に犬や猫をつなぐ、第四条は鷹を扱う者を泊める場合は、誰の鷹か確認して鳥見に報告する、第五条は札を持たずに鷹を使う者がいたら鳥見に知らせる、第六条は鹿やむじなを追ってはいけない、第七条は餌差(えさし)が鶉(うずら)やひばりを取ったならば鳥見に注進する、第八条は雁(かり)を使わない、第九条は鳥を飼わない、第一〇条は鉄砲を打つ者がいたら、どこの国、誰の領地の者か聞いて鳥見に届ける、第一一条は冬期は田に水を入れない、鳥を追い立てない、第一二条は鳥の巣は取らず、落鳥は鳥見に持参する、第一二条は預かった札は大切にし、火事や盗難などにより紛失した場合は鳥見に届ける、第一三条は餌差に雉(きじ)を取らせない、第一四条は餌差は三夜以上泊めない、第一五条は人馬割り当ての指示があったら昼夜に限らず提供する、であった(史料集二一、四五頁)。鳥見を中心とする鷹場村々の規制と負担が多く示されている。小平市域の村々は、領主の支配(年貢・司法・行政など)とは別に、尾張家鷹場としての規制と負担を負ったのである。
 近世中期以降、尾張家鷹場の範囲は、北は荒川、南は多摩川、東は練馬(現練馬区)、西は羽村(はむら)(現羽村市)と広大であり、幕末期には一八五か村、石高六万六四九八石余を数えた。一つの大名領にも匹敵する広さである。
 しかし、石高を基準に尾張家鷹場の幕末期の、支配形態をみると、幕府領(代官二名)が六六・六%、藩大名領(川越藩など四藩)が一七・二%、旗本知行所(四七家)が一五・六%、寺社領が〇・六%と分散・入組の複雑な状況にあった。しかも、このなかに尾張藩領は全くなかった。
 この点、尾張家の江戸周辺鷹場の由来を記した「手続書」(徳川林政史研究所所蔵)には、「御鷹場村々の儀は御料所又は他の御領分の御知行に付、御国表御取扱とは御模様も相違仕候義に付」と、尾張家鷹場には、尾張藩領はなく、幕府領や他領ばかりであるため、国元(尾張名古屋)とは、鷹場の取り扱いが異なると記されている。
 尾張家は、広大かつ複雑な支配形態の土地、しかも不案内な江戸周辺の鷹場を、戸山(とやま)(現新宿区)の尾張家下屋敷(しもやしき)に鷹方役所(たかがたやくしょ)(史料では「御鷹方役所」と記される)を設けて、鷹場を支配・統制する一方、砂川(すながわ)(現立川市)のち立川(たちかわ)(同)、下保谷(しもほうや)(現西東京市)、水子(みずこ)(現埼玉県富士見市)の三か所に陣屋を設け、ここに鳥見を置き支配したのである。

図1-73 寛政期の尾張家戸山屋敷の図
『風俗画報』第18号より転載。