尾張家の鷹場役人

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尾張家の鷹場役人の制度は、幕府鷹場に準じていた。
①鷹匠

 鷹匠は、先述のごとく鷹狩の際に使う鷹を飼育したが、彼らを統括したのが鷹匠頭(たかじょうがしら)である。文政元年(一八一八)八月、鷹匠頭の吉田甚平が、尾張国の国詰め(くにづめ)となったと知らされ、文政八年四月一六日には、先手物頭(さきてものがしら)の富田勘左衛門が鷹匠頭に任命されたことをうけて、鷹場預り(たかばあずかり)案内一同が、尾張の国元に祝儀を送ることを了解し、村々に伝えることを記している。文政一二年八月二五日、鷹場預り案内の井上紋次郎と當麻弥左衛門は、鷹匠頭の山中半左衛門が江戸詰めとなり、近く国元から江戸にくるので、到着次第挨拶に行くことを了解している。鷹匠頭が、尾張と江戸周辺の役職を異動し、鷹場村々がこれと深くかかわっていたことが知られる。

②鳥見

 鳥見は、日常的に鷹場を管理し、鷹場村々に触(ふれ)や達(たっし)を伝える一方、村々からの要望を尾張家に取り次いだ。近世前期、尾張家は鷹場内の田無村(たなしむら)、久米川村(くめがわむら)(現東村山市)、藤沢村(ふじさわむら)(現埼玉県入間市)、館村(たてむら)(現埼玉県志木市)、下片山村(しもかたやまむら)(現埼玉県新座市)、城村(しろむら)(現埼玉県所沢市)、箱根ケ崎村(はこねがさきむら)(現瑞穂市)、宗岡村(むねおかむら)(現埼玉県志木市)、鶴間村(つるまむら)(現埼玉県富士見市)の計九か村に、鳥見を二人ずつ、一か所二年交替で一八人任命した。

③餌差

 鷹の餌を集める餌差(えさし)も、餌差札を携帯して尾張家鷹場で活動した。
 大沼田新田の御用留(ごようどめ)によれば、寛政六年(一七九四)七月、青柳村(あおやぎむら)(現国立市)と木野目村(きのめむら)(現埼玉県川越市)の農民を定雇餌差(じょうやといえさし)に任命し、同七年八月一日には、下保谷村陣屋(しもほうやむらじんや)が雇餌差を引き上げることを知らせている。天保一〇年(一八三九)五月には、水子陣屋(みずこじんや)が国分寺村(現国分寺市)と鶴間村の農民を新たに雇餌差に任命したことを伝えている。鷹場農民が、陣屋の鳥見によって餌差に任命され、鷹の餌鳥を確保していたことが知られるのである。

図1-74 「(餌差札写)」
文政10年10月(史料集22、p.459)