「鷹場預り」の起源

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しかし、実際に鷹場村々を管理したのは、地元の村々から取り立てられた鷹場預り(史料では「御鷹場預り」のち享保二年(一七一七)以後は「御鷹場御預り」「御鷹場御案内」、天保一三年(一八四二)以後は「御鷹場御預り御案内」などと記される)であった。
 先の「手続書」には、「源敬公(げんけいこう)様(義直(よしなお))御代最初御鷹場御拝領あらせられ候砌(みぎり)、其地理を弁(わきまえ)、公儀御拳場(おこぶしば)・御捉飼場之御規定(おとらえかいばのおぎじょう)をも心得、御家御鷹場御法令の御趣意村役人共へ常々申諭(もうしさとし)、猶又(なおまた)御鷹野に成らせられ候節、諸事御不都合これ無き様にとの御趣意を以、高橋三郎右衛門、山口太兵衛、粕谷右(馬)之介、右の者共儀は孰(いずれ)も郷士(ごうし)に准し候身柄専武門の道をも相弁(わきまえ)、御場内村々支配仕、御締向御用筋取扱相成候者に付御撰(えらび)の上寛永十五寅年初て召し出され、新規地役人御場御預に仰せ付けられ」とある。すなわち、尾張家初代の徳川義直が鷹場を与えられると、尾張家は寛永一五年(一六三八)に当地の地理を熟知し、拳場(こぶしば)(幕府鷹場)や捉飼場の規定を心得ており、尾張家の鷹場法度を日頃から村々に申し聞かせ、鷹狩の際に不都合がないようにするために、高橋三郎右衛門、山口太兵衛、粕谷右馬之介の三人を御場預り(鷹場預り)に任命した。この三家は、郷士(ごうし)に準じた家柄で武門の道もよくわきまえているので、鷹場村々を支配し、取り締まりを担当するようになったと記されている。尾張家は、地域に通じた郷士三家を鷹場預りに任命して支配を開始したのである。
 三家のうち、高橋三郎右衛門については、郷士に准じ、戦国大名北条氏の支配下役人の「小代官(こだいかん)」を勤め、享保改革以前は代官も郷士待遇をした家柄であったことが知られる(史料集二二、二三六頁)。