鷹場預りの増員

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その後、鷹場預りに交代があった。まず、正保~慶安年間(一六四四~五二)に、田無村の下田孫右衛門が就任し、先の三人の一人が退任したとみられる。また、「手続書」によれば、尾張家二代の光友がたびたび鷹狩をするようになると、三人では手が行き届かず、村々の申し出により「郷士同様」の身分の扇町谷村の粕谷十兵衛が任命された。
 さらに、「手続書」によれば、延宝七年(一六七九)にも、鷹場範囲の変更にともない、新たに鷹場となった二四か村のうちの水子村の高橋兵庫が、粕谷十兵衛と同様の郷士的身分であることから鷹場預り就任を願い認められた。
 このほか、延宝年間(一六七三~八一)には、鷹場預りとして多摩郡羽村(はむら)の坂本織部(さかもとおりべ)の名前も見られる。坂本については、建久年間(一一九〇~九九)ころ、武蔵七党の一つ村山党に属し、代々郷士として村山郷殿ケ谷村(とのがやむら)(現瑞穂市)に住んでいた村野肥後(ひご)が、慶長年間(一五九六~一六一五)頃に砂川新田(すながわしんでん)(現立川市)を開き農民を取り立てて移り住んだ。この村野には男子がいなかったため、寛永年間(一六二四~四四)に同じ郷士で以前から縁のある山口太兵衛の二男を養子とし、助右衛門と名づけて鷹場預りとした。この二代後に坂本織部が就任し、元禄期の鷹場廃止をへて享保の鷹場預り案内の復活後、寛政元年(一七八九)に復職している。
 以上、近世前期の尾張家鷹場は、のちに「古役(こやく)」とよばれる鷹場預り五家(粕谷右馬之助、下田孫右衛門、坂本勝蔵、村野九郎右衛門、高橋孫三郎)が分担して管理したのである(史料集二一、二〇三頁)。