では、鷹場預りは、どのような職務を果たしたのか。享保二年(一七一七)一二月「御鷹場御預り心得請書(うけがき)」には、(1)尾張家より手当金年五両が与えられる、(2)鷹場法度を村々に守らせ一七〇枚の合札(あいふだ)を配る、(3)鷹場内での鉄砲打ちや殺生を取り締まる、(4)尾張家支給の費用を鳥見の宿所となる農民に渡す、(5)鷹場の境の杭や塚の見回りを行う、の五か条が記されている(史料集二一、一九七頁)。
鷹場預りは、寛文九年(一六六九)まで、江戸八丁堀(はっちょうぼり)(現中央区)の尾張家蔵屋敷(くらやしき)で扶持米(ふちまい)三人分を毎月受け取っていたが、この方法は、路銀などの費用がかさむことから尾張家に歎願し、翌一〇年から扶持代金三両ずつを受け取ることとし、元禄五年(一六九二)まで続いた(「手続書」)。
以上のように、尾張家は江戸周辺の土地に不案内であったため、郷士の由緒を持ち、地域において権威があり、地域事情に通じた在地の有力農民を鷹場預りに任命し、扶持代金を与えて鷹場支配を実現したのである。