その後、五代将軍綱吉は、生き物の殺生を禁止する「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」を発布し、鷹狩や鷹場制度を廃止した。これにより天和(てんな)二年(一六八二)以後、鷹匠・鳥見などの鷹場役人は漸次縮小・廃止され、鷹部屋で養育されていた鷹も、元禄元年(一六八八)以後、入間・高麗(こま)・川越(以上現埼玉県)の山麓や伊豆諸島に放たれた。同六年には、江戸の神田鷹匠町が小川町(おがわまち)(現千代田区)に、小石川の餌差町(えさしちょう)が富坂町(とみさかちょう)(現文京区)へと町名を変えられた。
この鷹狩と鷹場の廃止は、儒教にもとづく文治政治が展開された六代将軍家宣(いえのぶ)、七代家継(いえつぐ)の時代にも継承され、享保元年(一七一六)に八代吉宗が復活するまで二四年間に及んだ。
御三家の鷹場も廃止された。『徳川実紀』の元禄六年一〇月一五日条には、「紀甲水尾の四卿今まであづかりし鷹場をかへし奉るべきむね、各こふまゝにゆるさる、これ上にて御放鷹の事停廃せられ、鷹坊の鷹みな放たれしをもてなり」(第六編、一七九頁)と、御三家の紀伊、水戸、尾張と、三代将軍家光の三男で甲斐(現山梨県)に領地をもっていた綱重(つなしげ)の鷹場が廃止された。小平市域の「御尋に付書付をもって申上候」(小川家文書)は、元禄五年頃の廃止とし、幕府史料と地域史料に若干の差はあるが、元禄五年頃尾張家鷹場は廃止され、尾張家の鷹匠、鳥見、餌差、鷹場預りの諸職も廃止された。鷹匠頭は、元禄六年一一月一〇日に廃止されている(『尾藩世紀・上』、三三六頁)。