将軍家鷹場の復活

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八代将軍吉宗は、将軍就任前後、正式に鷹狩と鷹場を復活した。享保元年(一七一六)八月一〇日、吉宗は、「江戸より十里四方古来之通御留場(こらいのとおりおとめば)」と、江戸廻り半径五里の地域を、以前と同じく御留場(禁猟区)とすることを通達した。三日後、将軍に就任し、八月末から九月はじめにかけて、幕府の鷹匠・鳥見などの鷹場役人が復活した。九月一一日には、あらためて江戸の周辺地域に、幕領と私領の違いなく、「古来之通」鷹場とすることが知らされた。「書上帳」によれば、「大御所(おおごしょ)様(吉宗)御鷹場御相続、御三家様方え御場相渡」と、吉宗は鷹場を受け継ぎ、御三家にも鷹場を与えた。
 幕府の触は、尾張家鷹場の村々にも廻された。たとえば、享保二年六月二六日、幕府鷹匠が御鷹御用で江戸を出立する際、南伝馬町(みなみてんまちょう)(現中央区)の吉沢主計(よしざわかずえ)は、内藤新宿(ないとうしんじゅく)(現新宿区)から小平市域の小川村までの宿々の問屋に対して、伝馬(てんま)(公用の馬)九疋を用意するよう指示し、六月二九日には、幕府鷹匠頭の小栗長右衛門正等(まさとも)が、御鷹御用で小川村に向かう際、同じく吉沢が内藤新宿から小川村までの宿々問屋に伝馬四疋を指示している。さらに、七月二日、幕府鷹匠頭の戸田五助勝房(かつふさ)が御鷹御用で小川村にいく際にも、大伝馬町(おおでんまちょう)(現中央区)の馬込勘解由(まごめかげゆ)が内藤新宿から小川村までの宿々問屋に、伝馬五疋を指示している。
 享保五年九月、小川村の名主弥市と組頭が、代官の朝比奈権左衛門資致(あさひなごんざえもんすけよし)にあてて、尾張家鷹場にもかかわらず、幕府鷹匠に人馬を提供したため、前代官の堀江半七郎成芳(ほりえはんしちろうなりただ)に訴えたところ、幕府の鷹に関する人馬勤めは不要との回答をえた。しかし、この秋も幕府鷹匠が廻村しているので、この分の負担は免除してほしいと願っている。
 享保六年一〇月二三日は、幕府の鷹御用人足や鳥献上の飛脚人足を勤めた場合、幕府領、私領(大名領・旗本知行所)、寺社領の違いなく、小川村の名主弥市ほか三か村の名主が、それぞれの年貢米のうちから扶持米を渡すことを、代官朝比奈に返答している。小川宿(小川村)は、尾張家鷹場にもかかわらず、幕府の鷹場役人にも人馬を負担をしていたのである。
 そのほか、享保六年七月には、農民が鷹場を監視する鷹番制度(たかばんせいど)を廃止する「定」が示され、享保七年一一月には、幕府餌差が廃止され、町人の請負餌差が任命されたことが伝えられている(史料集二一、一九九頁)。
 小平市域は、尾張家鷹場でありながら、復活した幕府鷹場の役人の支配も受けたのである。

図1-75 「将軍家駒場鷹狩図」部分
(東京国立博物館所蔵、Image:TNM Image Archives)