幕府の触は、尾張家鷹場の村々にも廻された。たとえば、享保二年六月二六日、幕府鷹匠が御鷹御用で江戸を出立する際、南伝馬町(みなみてんまちょう)(現中央区)の吉沢主計(よしざわかずえ)は、内藤新宿(ないとうしんじゅく)(現新宿区)から小平市域の小川村までの宿々の問屋に対して、伝馬(てんま)(公用の馬)九疋を用意するよう指示し、六月二九日には、幕府鷹匠頭の小栗長右衛門正等(まさとも)が、御鷹御用で小川村に向かう際、同じく吉沢が内藤新宿から小川村までの宿々問屋に伝馬四疋を指示している。さらに、七月二日、幕府鷹匠頭の戸田五助勝房(かつふさ)が御鷹御用で小川村にいく際にも、大伝馬町(おおでんまちょう)(現中央区)の馬込勘解由(まごめかげゆ)が内藤新宿から小川村までの宿々問屋に、伝馬五疋を指示している。
享保五年九月、小川村の名主弥市と組頭が、代官の朝比奈権左衛門資致(あさひなごんざえもんすけよし)にあてて、尾張家鷹場にもかかわらず、幕府鷹匠に人馬を提供したため、前代官の堀江半七郎成芳(ほりえはんしちろうなりただ)に訴えたところ、幕府の鷹に関する人馬勤めは不要との回答をえた。しかし、この秋も幕府鷹匠が廻村しているので、この分の負担は免除してほしいと願っている。
享保六年一〇月二三日は、幕府の鷹御用人足や鳥献上の飛脚人足を勤めた場合、幕府領、私領(大名領・旗本知行所)、寺社領の違いなく、小川村の名主弥市ほか三か村の名主が、それぞれの年貢米のうちから扶持米を渡すことを、代官朝比奈に返答している。小川宿(小川村)は、尾張家鷹場にもかかわらず、幕府の鷹場役人にも人馬を負担をしていたのである。
そのほか、享保六年七月には、農民が鷹場を監視する鷹番制度(たかばんせいど)を廃止する「定」が示され、享保七年一一月には、幕府餌差が廃止され、町人の請負餌差が任命されたことが伝えられている(史料集二一、一九九頁)。
小平市域は、尾張家鷹場でありながら、復活した幕府鷹場の役人の支配も受けたのである。
図1-75 「将軍家駒場鷹狩図」部分
(東京国立博物館所蔵、Image:TNM Image Archives)