尾張家鷹場の復活

301 ~ 302 / 868ページ
一方、尾張家鷹場の復活は、享保三年(一七一八)五月一五日に「この日三家の方々に放鷹の地を下さる、これ古制に復せられしなり」(『徳川実紀(とくがわじっき)』第八篇、七三頁)と、元禄期以前の古制に戻り、御三家に鷹狩の地を与えたことが記されている。また、前出「書上帳」には、「当御場中興(おばちゅうこう)の御発端(ほったん)、享保二年酉六月六日御公儀より御鷹場御改のため、小把(こばた)源大夫殿(鳥見)・戸口(とぐち)庄右衛門長政殿(鳥見)・伊奈半左衛門(忠逵(ただみち)・代官)殿、御手代衆萩野藤八殿・嶋村新右衛門殿」(史料集二一、四一頁)と、享保二年六月に幕府役人の鷹場調査が行われ、「尤御場曳渡(ひきわたし)は享保二年酉八月、御国詰御用人(おくにづめごようにん)遠山彦左衛門殿、江戸定府(じょうぶ)御同役石河一角、両方御用人衆中御取扱遊され、御場引渡相済候、これにより請取方」(史料集二一、三七頁)と、享保二年八月に尾張家の国詰め用人と江戸定府用人が、尾張家鷹場を受け取っている。さらに、尾張家史料によれば、八月一九日に屋敷奉行が出向き、幕府から鷹場を受け取ったことが記されている(『尾藩世紀・上』、三一四頁)。享保二年一二月に、尾張家鷹場の村々が尾張家から預った合わせ札は一七〇枚であり、『徳川実紀』よりも早く尾張家鷹場が引き渡されたことが知られる。その後、享保四年に幕府の鳥見・鷹匠・代官と、尾張家市谷(いちがや)上屋敷の留守居方(るすいかた)・作事方(さくじかた)の役人が立ち会い、尾張家鷹場と幕府鷹場の境界を確認し、松を目印としている。
 鷹匠・鳥見・餌差などの尾張家鷹場関係の役職も復活した。このうち鳥見は、復活当時一八人いたが、享保一〇年に半減され、元禄以前と同じ九人となり、一二年にはすべて引き上げられた。享保一五年九月には鳥見一〇人を五か村に置き半年交替とした。天明六年(一七八六)とされる七月二九日、鷹野役所は鷹場預り一同に、鳥見六人が尾張から江戸に到着し、これまでの鳥見と交替することを触れている。その後、延享二年(一七四五)、尾張家鷹場の南の大沢(おおさわ)(現調布市・三鷹市)・府中(ふちゅう)(現府中市)など九か村が、尾張家鷹場に組み込まれ、鷹場預りの高橋覚左衛門と村野源五右衛門が管理した。寛延元年(一七四八)にも、青梅地域の村々が御三卿(ごさんきょう)の田安宗武(たやすむねたけ)の領地になったことから、現在の小金井市、国分寺市、立川市を中心とする周辺地域が、「御鷹場新場」(新鷹場)とされた。小平市域では、鈴木新田が尾張家鷹場に組み込まれている。近世後期においても、尾張家鷹場の範囲に変化があったのである。