このとき、鷹場預り案内に任命されたのは、寛永年間(一六二四~四四)の三家のうちの粕谷家と、のちに任命された下田家、延宝年間(一六七三~八一)に任命された高橋兵庫(悴孫三郎)、粕谷家のあとを継いだ村野九郎右衛門(多摩郡岸村)、その他坂本織部の五家であった。享保二年(一七一七)一二月の鷹場内での鉄砲殺生を禁止する文書には、「御鷹場御預り郷鳥見(ごうとりみ)下田孫右衛門」と、「郷鳥見」の職名もみられる(史料集二一、五五頁)。
享保六年に鳥見が引き払い、代わりに五人の「古役(こやく)」の鷹場預り案内が見回っていることから、彼らは野扶持か金子の支給を願った(史料集二一、二〇三頁)。復活当時の鷹場預り案内の待遇は、初年(享保二年)は、鷹場廃止以前の扶持代金三両から五両へと増加されたが、翌三年幕府の「奉公人切米半減令」の影響で、もとの三両に減らされた(「手続書」)。
鷹場預り案内の「古役」五家は、鷹場の境杭と鷹場村々を分担して管理した。享保一七年一〇月当時の五家の分担は、粕谷右馬之助が三六か村と杭五本、小川弥市郎が二七か村と杭三八本、坂本勝蔵が三六か村と杭一五本、村山次郎右衛門(村野九郎右衛門の後継)が四七か村と杭九本、高橋孫三郎が二四村と杭一七本となっている。このうち、小川弥一郎は、下田家のあとを継いだとみられるが、「浪人郷士の家筋にて御入国以来民間に流落(りゅうらく)仕候」と、郷士の流れをくむ家柄であり、本章第一節でみたように明暦年間(一六五五~五八)に小川村を開発する経済力を持っていた。
図1-76 尾張家鷹場杭
(府中市郷土の森博物館所蔵)
以上、享保二年の尾張家鷹場の復活は、元禄以前に鷹場預りを勤めていた、土豪の系譜を引く「古役」五家の者たちを「鷹場預り案内」に復活させた。五家は、こののち寛政一二年(一八〇〇)までの約一二〇年間、鷹場預り案内役を独占し、尾張家鷹場を支配したのである。
ただし、「古役五家体制」内部には変化もみられた。享保一五年、村野家の九郎右衛門が病気で退役すると、跡継ぎがいないことから、一族で箱根ヶ崎村(はこねがさきむら)の村山次郎右衛門が継いだ。この村山家は、武蔵七党の一つ西党の流れをくむ家筋とされる。宝暦九年(一七五九)には、村山家の悴祐蔵が幼少であったため、これも一族で小平市域の小川村の小川東吾が継いだ。宝暦一一年(一七六一)一〇月、鷹場預りの担当区域の変更があり、入間郡の町谷村(まちやむら)(現埼玉県所沢市)と新井村(あらいむら)(現同)の二か村が小川弥次郎から粕谷右馬之助の担当に代わった。