鷹場預り案内の交代に際しては、同役の合意と尾張家の了承が必要とされた。安永六年(一七七七)五月、鷹場預り案内の小川弥五左衛門が、同役一同に対して、伜の弥左衛門に跡を譲ることを願っている。また、安永八年二月には、鷹場預り案内の小川弥次郎・船津利右衛門・粕谷右馬之助・岩崎重蔵が、屋敷方役所奉行の金盛市之進の下役元締の西垣友七と、鷹方役所改の吉田七太夫の書役(かきやく)吉田幸三に対して、下田孫右衛門が病身であるため、伜吉五郎に跡役(あとやく)を譲ることを出願している。天明元年(一七八一)六月には、鷹場預り案内の小川弥次郎が屋敷方役所に対して、倅弥四郎を見習役に就任させることを願っている。
以上のように、鷹場預り案内の交代には、同役一同の承認と、尾張家役所の了承が必要だったのである。
天明四年正月、鷹場預り案内の五人が、連名で屋敷方役所と鷹方役所に、享保二年(一七一七)の鷹場復活の際、鷹場預り古役五人が任命され、役料五両の証文を渡されたが、実際は翌年一二月に三両しか与えられなかった。そこで、享保四年に証文通り五両を願おうとしたが、尾張家役人の交代や上屋敷の類焼があり出願できなかった。享保一三年、古役は困窮を理由に野扶持を願ったが認められず、安永六年と八年にもかなわなかった。自分たち鷹場預り案内は、以前の鷹狩の際には鷹場の境まで出て当主にお目見えし、鷹場内を案内した。しかし、最近は日帰りで、供の鳥見も少ないため、私たちが江戸へむかえにいき、供をして見送りまでする。役を勤めるのは名誉で、ありがたいが、任務の際は召使を連れ、費用もかかるので大いに困窮する。このため、金三両と三人扶持を願ったという。
以上のように、近世後期の鷹場預り案内は、元禄期の廃止前と同じく、在地土豪の系譜をひく地域の有力農民が任命された。先の「手続書」には、鷹場預り案内について、「一体御役儀新規御取立の者は猶更、一類の内代役又は父子引替共本役共え人撰の儀仰せ渡され、取調の上連印を以奉仕願候義、往古より仕来にて延宝度より寛政十二申年迄は本役のみ相勤来り、並役・格役又は他家にて見習と申儀古来より一切御座無く候」と、①鷹場預り案内は、延宝期から寛政一二年(一八〇〇)までの約一二〇年間は古役=本役五人が勤め、②父子世襲を原則とし、跡継ぎがいない場合は一類のなかから本役を選び、③並役・格役など本役に準じた役職はなく、五家以外から見習になる者もない、と記している。近世前・中期を通じて、「古役五家体制」が続いたのである。