天保一二年(一六四一)七月「村高御代官領主地頭性名御調(じとうせいめいおしらべ)ニ付書上帳」も、野中新田の名主善左衛門と定右衛門が、當麻弥左衛門に対して村高と支配者を書き上げ、同年同月「去子年中御鷹御用人馬差出員数(いんすう)書上帳」も、同じく善左衛門らが弥左衛門に対して、天保一一年分の人足を書き上げている(史料集二一、二七七頁)。嘉永元年(一八四八)一二月「御鷹場御預り村々割合帳」は、鷹場案内の當麻翁助、村野栄左衛門、倉片退蔵、高橋覚左衛門など計一一人の預り分二二か村の村高を書き上げている(史料集二一、二八八頁)。
尾張家は、鷹場預り案内を通じて、繰り返し鷹場村々の実態を調査し、把握していたのである。
図1-77 尾張家鷹場地図
宝暦3年8月頃「(尾州様御鷹場御定杭場所書状帳)」(史料集21集、p.1)