鷹場法度

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尾張家の鷹場規制は、同家の鷹場法度を通じて行われた。たとえば、天保九年(一八三八)正月、中村八太夫知剛(ともたか)代官所の野中新田、鈴木新田、大沼田新田、田口五郎左衛門喜古代官所の廻り田新田、田無新田(たなししんでん)、柳窪新田(やなぎくぼしんでん)、前沢新田(まえさわしんでん)、小山新田(こやましんでん)(以上、現東久留米市)、旗本米津(よねきつ)伊勢守知行所の前沢村(まえさわむら)、門前村(もんぜんむら)、南沢村(みなみさわむら)(以上、現東久留米市)の計一一か村の名主・年寄・百姓代の村役人計三三人は、鷹場預り案内の當麻弥左衛門にあてて「差上申御鷹場御法度証文之事」の一〇か条を提出した。内容は以下の通りである(史料集二一、一三一頁)。
①鷹場で殺生をする者がいたら合札(あいふだ)して確認し、餌差であっても注進する。
②鷹狩の道筋はもちろん、脇道や細道まで邪魔になる逆茂木(さかもぎ)などは片づけ、道橋横道などまで入念丈夫に普請をする。
③御成り逗留中(とうりゅうちゅう)、村々では犬猫をつなぐ、案山子(かかし)も禁止し、冬の間中、田には水を入れない。
④鉄砲を持つ者はおらず、もし鉄砲を打つ者がいたら見届け注進する。猪(いのしし)・鹿(しか)・兎(うさぎ)などは勝手に捕えない。
⑤大鳥から小鳥まで鳥は飼わない。もし落鳥などがいた場合は、注進し差図を受ける。
⑥合札は紛失しないように大切に扱う、境杭も大切にし、境塚垣などが破損した場合は、風雨に限らず人夫を出して修理し、御用人馬も滞りなく差し出す。
⑦鷹場内で新たに屋敷や家作、水車を取り立てる場合は事前に届け、鳥の居つきの障りにならぬようにする。
⑧神事祭礼で大勢の人が集まる場合は、事前に届ける。
⑨最近、村々において蓑や駕籠を伏せ小鳥を殺生する者が多数いるが、このようなことがないように小前に知らせる。
⑩川での殺生は禁止する。

 以上のように、鷹場村々は、治安・秩序の維持のために、さまざまな規制と負担を負っていたのである。これと関連して、たとえば、天保一〇年正月「御鷹場御法度証文」では、①害獣を棒や鑓などで追い散らす願書提出の期限を正月二〇日とする、②威し(おどし)鉄砲の願書の期限は三月二〇日とし、実際に打つ期限は八月一日までとする、③案山子設置の願書は九月二〇日までとする、と記されている(史料集二一、一三五頁)。鷹場村々の日常生活・生産は、さまざまな文書を作成・提出することによって規制運営されていたのである。
 明和元年(一七六四)閏一二月に入間郡水野村(みずのむら)(現埼玉県狭山市)の名主忠助以下の惣百姓が、鷹場預りの小川弥次郎にあてて提出した尾張家鷹場法度には、つぎのように記されている。内容は、以前から鷹場法度を守るという証文を毎年鷹場預りに提出していたが、守られない状況もあるので、あらためて申し付けられたのをうけて、①鷹狩り用の鳥を追い立てず、鷹の訓練時は静かにする、②大声で人を呼んだり、昼夜ともに田畑で火を焚(た)いたり、小屋を建てたりしない、③拍子木を打ったり、手をたたいたり、縄で地面を打ったりしない、④すべて鷹の訓練の妨げにならないようにする、⑤は薪を採る格好をして籠などを背負い、鷹場に居ついている鳥を追い立てないことなど、すべての農民が守ることを約束している。
 尾張家鷹場の村々は、近世前期同様、後期においても鷹場法度を通じて、種々の規制と負担を負っていたのである。以下、その実態を具体的にみていくことにしたい。