①鷹場人足負担

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 寛延三年(一七五〇)一〇月、野中新田善左衛門組は、鷹場預り案内の下田孫右衛門に対して、寛延元年に同新田は鷹場となり、翌二年に鷹場役人の旅宿(りょじゅく)となった。他方、新田であるために農民の生活は苦しく、遠方の御用は勤められない、このまま旅宿を勤めるのであれば、清戸村(きよとむら)の鷹狩の御成り御用人馬を免除してほしいと願っている。
 天明二年(一七八二)一一月「尾州様御鷹御用御伝馬夫人足改帳」は、廻り田新田の弥兵衛が鷹場預りの小川弥次郎にあてた安永二年(一七七三)から天明二年までの一〇年間の尾張家鷹場関係の人馬書上である。たとえば、安永年間(一七七二~八一)には小榑村(こぐれむら)(現練馬区)の「御成御用(おなりごよう)」のために人足六人を出し、安永五年四月と同九月には、下保谷村(しもほうやむら)(現西東京市)に鳥見がくるので、それぞれ伝馬一疋を出している。翌六年には、御鷹御用として榎戸新田(えのきどしんでん)(現国分寺市)に人足九人を出し、安永八年には、御鷹御用のために江戸屋敷に勤める人足二人を出している。さらに、天明元年には、御鷹御用のために田無村(たなしむら)(現西東京市)から江戸までの人足二人を出すなど、さまざまな人馬を勤めている(史料集二一、三三八頁)。天明六年九月「御請書(おうけがき)」は、廻り田新田と小川新田を含む計五一か村の名主が、鷹場預りの小川弥次郎にあてて、鷹場御用人馬を、買上人馬ではなく正人馬(せいじんば)で勤めることを了承している(史料集二一、三四七頁)。
 「尾州御用留(ごようどめ)」の天保一三年(一八四二)七月二六日条には、御鷹三据のほか、鷹匠頭、鷹匠組頭、鷹匠、御側鷹掛(おそばたかがかり)、御鷹稽古(けいこ)、同心、鷹場見廻(たかばみまわり)など一五人が、「御鷹御用」として翌二七日に立川陣屋(現立川市)を出立し、村々を廻り、八月七日に大沼田新田に宿泊することを知らせ、人足一〇人を負担するよう指示している(史料集二二、七八頁)。同年「御用留」の一〇月三日条には、戸山役所が下保谷陣屋経由で、近日尾張家大納言(一二代当主斉荘(なりたか))が鷹場内の水子村(みずこむら)(現埼玉県富士見市)付近に鷹狩りに出かけるが、鷹狩当日と前後の日に多くの人馬が必要なので、差し支えなく勤めるよう指示している(史料集七、二八八頁)。
 鷹場村が、鷹狩りや鷹場に関する人馬負担をしていたことが知られるのである。