村々は、農作業の障害になる猪や鹿など、獣類を駆除するための農具としての鉄砲の使用も規制されていた。たとえば、宝暦四年(一七五四)、大沼田新田ほか四か村の名主と組頭は、鷹場預り案内の粕谷右馬之助あてに、猪や鹿が作物を荒すので、幕府代官などの役所に願って鉄砲を借り、四月一日から七月晦日まで許可されたことを惣百姓が感謝し、この期間が過ぎたら鉄砲の使用を止め、鷹場預り案内に報告することを約束している(史料集三、六六頁)。文化六年八月には、鷹場村々が鷹場預り案内の小川弥四郎ら六人に対して、今年も例年通り猪や鹿のために鉄砲を使用してきたが、期限なので使用を止めたことを報告し、鷹場預りたちはこれを鷹方役所に届けている。
文政五年(一八二二)正月、鷹場預り案内格の新藤一覚、舟津太右衛門、横山広右衛門、當麻弥左衛門、當麻半次郎は、担当地域に猪や鹿が多く出て作物を荒らすので、例年通り棒や竹槍で追い払うことを鷹方役所に願った。しかし、棒や竹槍では結局不十分であり、同年三月案内格五人は鷹方役所あてに、例年通り四月一日から七月晦日まで威鉄砲(おどしでっぽう)の使用を願った。このとき願い出た鉄砲の数は、當麻弥左衛門と舟津太右衛門が各一挺、横山平十郎が三挺、新藤一覚が五挺、計一〇挺であった(史料集二二、一三~一四頁)。
図1-78 鉄砲札
「諸鑑札雛形」(史料集22、p463)