鷹場農民は、案山子(かかし)の設置にも許可が必要であった。たとえば、天保一二年九月、野中新田の農民たちは、大沼田新田の鷹場案内當麻弥左衛門に対して、鳥が増え、作物を荒らすので、例年の通り案山子を許可してほしいと願い、翌一三年九月二〇日には、大沼田新田の名主・年寄・惣百姓が、下保谷陣屋に対して、諸鳥が作物を荒らすので、例年の通り縄張りの案山子を設置したいと願った。弘化三年(一八四六)九月二二日、鈴木新田の村役人と惣百姓が、當麻弥左衛門に対して、諸鳥が麦作を荒らすので、例年の通り縄竹(たけなわ)で案山子を作りたいと願い、翌四年九月二〇日には、廻り田村の村役人が、下保谷陣屋に対して、鳥が諸作を荒らすので案山子の設置を願っている。案山子という農業生産に不可欠の条件も、鷹場役人の判断のもとにあったのである。