鷹場村々は、さまざまな経済的負担も負っていた。たとえば、小川新田の場合、享保七年(一七二二)一二月「寅村入用立合改小前帳」によれば、猪・鹿・狼などが畑を荒らすので、尾張家の鷹場役人に願い、竹や槍などで追ったが効果がなく、幕府代官に願い鉄砲を借り、使用許可を尾張家役人に願った。このために、村役人や百姓らが、江戸の尾張家屋敷や田無・前沢の陣屋に出かけた費用として、銭一貫七〇〇文を支出した。三月三日と八月には、上水の高札三か所、幕府鷹場の定杭が六か所、尾張家の鷹場杭が六か所、計一五か所の矢来(やらい)(囲い)の修理費用として銭二〇〇文を支出した。その他、四月と五月に尾張家の鷹合札の確認や鷹御用のために、田無と前沢の陣屋に出かけた費用一五〇匁を支出している(史料集二九、五頁)。
また、大沼田新田の享和元年(一八〇一)「酉年村入用帳」によれば、正月七日に鹿や猪を追い払うことを下保谷陣屋に願い、正月二〇日には小榑村の案内役に鹿・猪を追い払うことを願い、それぞれ二四八文を支出した。八月二四日には保谷村陣屋に札改め(ふだあらため)に出かけることから四八文を出している(史料集二九、一九二頁)。さらに、廻り田新田の天保六年三月「去午年村入用夫銭書上帳」によれば、前年の尾張家御鷹場入用として鐚(びた)二貫一〇〇文が書き上げられているが、これは全入用一三貫九三一文の一五%にあたり(史料集二九、三五一頁)、鈴木新田の嘉永六年二月「去子村入用書上帳」によれば、尾張家鷹場のために伝馬人足買上賃として銭六貫五〇〇文を水子陣屋(みずこじんや)に納めているが、これは総額九六貫一〇四文の約七%に及んでいる(史料集二九、一六七頁)。
以上、①~⑨でみてきたように、鷹場村々は、鷹場であることに由来するさまざまな負担と規制のもとに置かれていたのである。