鷹場見廻

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寛政六年(一七九四)五月、尾張家鷹場陣屋詰の鳥見は「鷹場見廻(たかばみまわり)」(史料では「御鷹場見廻方」)と改称し、翌六月鷹匠支配から目付方(めつけかた)支配へと変更された(『国分寺市史料集(Ⅱ)』、一三三・一七二頁)。鷹場見廻は、陣屋を拠点として、鷹場の管理や人馬割り当てなどを行った。たとえば、寛政六年一一月一六日、下保谷陣屋の鷹場見廻は、大沼田新田をはじめとする村々の名主中に廻状を出している。ここには、一八、一九両日のうち鷹狩があり、村々に人馬を割り当てるので(大沼田新田は人足一人、馬一疋の負担)、名主たちは明日一七日昼八つ時(午後二時頃)に陣屋にくるよう指示されている。
 文化五年(一八〇八)二月二日には、鷹場見廻が、明日、水子陣屋から戸山屋敷まで荷物を運ぶので、丈夫な人足を出すように廻状で触れている。文化五年閏六月二二日には、鷹場見廻が、三日後に鳥追い御用人足に関する話があるので、鷹場村々の名主たちに、朝五つ時(午前八時頃)から九つ時(昼一二時頃)まで、印鑑を持参し下保谷陣屋にくるよう指示している。文化一三年には、下保谷陣屋の鷹場見廻の林勇左衛門が、書状一通と小鳥籠一つを、立川陣屋に継ぎ送ることを廻状で伝えている。