古役五家体制の崩壊

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その後、寛政一一年(一七九九)七月、鷹場預り案内の支配が、尾張家の屋敷奉行から鳥見組頭に変更され、翌一二年には、粕谷十兵衛の跡役の小川弥四郎が、職務怠慢を理由に免職となった。一方、寛政一二年、案内並役(あんないなみやく)が設けられ、立川村の井上冨右衛門と北永井村(きたながいむら)(現埼玉県三芳町(みよしちょう))の船津吾三郎が任命され、文化七年(一八一〇)に船津吾三郎の伜吾八郎が病気で引退すると、新たに藤窪村(ふじくぼむら)(現埼玉県三芳町)の椙山惣八郎(すぎやまそうはちろう)が任命された。
 文化六年五月には、武州新座郡田島村(たじまむら)(現埼玉県朝霞市(あさかし))の名主鈴木武右衛門が、水子村の久兵衛の鷹場預り案内見習の引退をうけて、自分の家はかつて尾張家の人びとが休息所や御膳所とした由緒があるので、久兵衛の跡役に自分を任命してほしいと、六人の鷹場預り案内一同に願った。これをうけて、一同は、鷹方役所に対して、武右衛門は身元もよく人品もいいので鷹場の締まりになることから、久兵衛の跡役に任命することをうかがっている。その後、文化八年、鷹場預り案内の支配が鳥見組頭から鷹匠頭に再度変更されるとともに、鷹場預り案内並役のもとに案内見習が設けられ、文化四年から一二年にかけて、立川村の中島周助、箱根ヶ崎村の村山次郎右衛門、大岱村(おんたむら)の當麻半次郎、田島村の鈴木武右衛門、糀谷村(こうじやむら)(現埼玉県所沢市)の新藤一学、北永井村の船津太右衛門、下留(富)村(しもとみむら)の(現埼玉県所沢市)横山広右衛門、の七人が任命された。このうち、文化一二年に中島と村山が案内並役となり、文化一四年残る五人も案内格(あんないかく)となり、従来の鷹場預り案内に案内格五人が加わる形となった。文政元年(一八一八)には大沼田新田の當麻弥左衛門、同七年には榎戸源蔵が、それぞれ案内格に任じられている(「手続書」)。
 これら寛政~文政期に尾張家鷹場の役人に任命された者たちの多くは、従来案内役を独占してきた「古役家」とは異なる家の者であった。たとえば、當麻弥左衛門家は、享保改革期に大沼田新田を開発し、以後同新田の名主を世襲し、文化七年に酒造り、同一〇年に醤油造りを開始する豪農であった。寛政~文政期の尾張家鷹場は、それまで在地土豪の系譜を引く有力農民やその一族に独占されていた鷹場預り案内の「古役五家体制」が崩壊し、新たに成長してきた有力農民を加えて、その支配を安定させたのである。