古役特権の否定

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さらに、天保一二年(一八四一)一二月、鷹場預り案内の職制も改編された。まず、鷹場役人の下役などに不念・不埒(ふらち)があった場合、いささかのことであっても、すぐに書状で鷹場吟味役に訴えることを指示したうえで、鷹場預り案内(本役)の新たな就任規定が示された。これらは、鷹場吟味役が鷹場預り案内に対して達したものであり、ここでも尾張家鷹場の天保改革の際、鷹場吟味役が大きな役割を果たしていたことが知られる。鷹場預り案内の新たな就任規定は、①従来、案内本役・並役(なみやく)はそれぞれ世襲してきたが、今後は本役の倅も並役とし、座順も並役の末座とする、②伜が見習を勤めている場合でも並役とし、座順は見習の年数をもって並役のなかに割り入れる、③空席となった本役へは並役から繰り上げる、というものであった。古役の特権が否定され、並役として新たに鷹場預り案内に任ぜられた者たちと対等に扱われるようになったのである。
 以上、尾張家鷹場の天保改革は、大目付-鷹場吟味役の監察の権限を強化し、近世中期以降台頭してきた新たな有力農民たちを組み込むことによって、支配体制を再編するものであった。
 天保一二年九月二二日、鷹場吟味役は、村野栄左衛門、倉片退蔵、高橋覚左衛門、井上紋次郎、新藤一学、榎戸源蔵、當麻弥左衛門、石原弥惣兵衛、横山広吉、村野源五右衛門、舟津重右衛門の一一人の鷹場預り案内に対して、日を決めて集会をもつことを、「年番」を通じて指示している(史料集二二、六七頁)。鷹場預り案内の「年番」制は、たとえば、文政五年八月の猪や鹿対策用の鉄砲使用願いや、同九月の案山子の使用願いなどに「年番當麻弥左衛門」の記述があり(史料集二二、一七頁)、天保一三年八月二八日の鷹場預り案内の担当村々の書き上げにも「年番新藤一学、横山広吉」の記載がみられる(史料集二二、七九頁)。年番制の採用もまた、古役の優位を奪うものであった。
 さらに、鷹場吟味役は、鷹場預り案内に対して、村々を公平に支配することを命じた。天保一三年三月、鷹場吟味役の廻状では、去冬に鷹方役所が、鷹場預り案内に対して、支配下の鷹場村々を「程よく割振(わりふる)」(上手に分割し)ことを指示したのをうけて、正月に所沢で「御一統集会」と全員の会合をひらき、それぞれ支配下の村々が承知したことを確認しあっている(史料集二二、七五頁)。右の八月二八日の書き上げは、この結果、作成されたものであった。
 こうした尾張藩の天保の鷹場改革のもと、天保一五年(弘化元年、一八四四)正月、鷹方役所は水子陣屋を通じて、鷹場預り案内の井上紋治郎と村野源五右衛門にあてて、鷹場案内の名称がまちまちで不都合であるので、一昨年以来改正されたが、今年から「御鷹場御案内」と記すよう案内役一同に触れることを命じた(史料集二二、九四頁)。しかし、その二か月後の三月には、今後職名を「御鷹場御預り御案内」に戻すよう指示している(史料集二二、九五頁)。天保改革にともない、職名が混乱したこともうかがえる。