文政五年(一八二二)九月五日、尾張家は世嗣(よつぎ)直七郎(斉温(なりはる))が田安斉匡(たやすなりまさ)の娘愛姫と結婚するため、鷹場村々の農民に、「直七郎」と同じ字の名前の者、字は違っても音が同じ者は、名前を変えるように指示している(史料集二二、一八頁)。また、文政一〇年八月一五日には、尾張家が、一〇代当主の徳川斉朝(とくがわなりとも)が隠居し、一一代に斉温(なりはる)が就任したことを伝え、斉温にも変わらず「御奉公」することを、鷹場村々に伝えている(史料集二二、二七頁)。天保一〇年(一八三九)四月一九日には、尾張大納言(一一代斉温)が没したことを知らせ、夫人の名前の猶(ゆう)や利姫と同じ文字や同じ音の文字を避けるよう命じている。尾張家の変化が鷹場農民の名前など、日常生活に影響を与えていたことが知られる。