尾張家当主などの実際の鷹狩にともなう鷹場農民への規制・負担も大きかった。たとえば、天明三年(一七八三)四月、鷹場預りは、次のような指示を出している。すなわち、尾張中将治行(はるゆき)が、新座郡溝沼村(みぞぬまむら)(現埼玉県朝霞市)から引又筋(ひきまたすじ)(現埼玉県志木市付近)に鷹狩に赴くので、道筋や出先に人馬などを出さないこと、犬猫はつなぐこと、鉄砲を許可された者も使用は禁止し鉄砲を名主宅に預け、のちに許可されてから撃つことなど、を命じられている。
また、寛政六年(一七九四)六月一五日には、鷹場預り案内の高橋民右衛門が鷹場村々に触を出した。内容は、鷹場村々が従来鷹狩の際に勤めてきた鳥追(とりおい)人足・水夫(かこ)(運搬)人足・御成御用人馬・陣屋加役(じんやかやく)の負担について、このたび尾張大納言宗睦(むねちか)が格別の憐愍(れんびん)をもって免除し、今後は御用人馬や廻状など定例のものに限るので、感謝の意を文書にして提出するよう命じている。鷹場村々は、これら尾張家のさまざまな規制や負担のもとで生活していたのである。