尾張家鷹場の村々は、尾張家とは別に、幕府の支配・統制も受けていた。たとえば、将軍の鷹狩の際に、さまざまな負担と規制を負っている。天保一五年(弘化元年・一八四四)二月二三日、幕府鳥見は、二五日に右大将家定(いえさだ)(のち一三代将軍)が小金井筋に鷹狩に来るので、廻り田村を含む尾張家鷹場の村々にあててつぎのような触を出している。すなわち、①火の用心、②人を表に出さない、③貝を吹かない、④乱心者には終日番人を付け置く、⑤森林などは入念に見廻り、野非人(のひにん)(無宿の非人)などは追い払う、⑥馬は終日繋(つな)ぐ、⑦出家山伏(しゅっけやまぶし)などは表に出さない、⑧大声を出したり唄をうたったりしない、⑨出火や異変は野方領中野村(現中野区)の触次(ふれつぎ)堀江泰次郎に届ける、の九か条である。同日、幕府の鷹野役所も家定の小金井筋鷹狩に関して、①火の用心、②野非人の留め置き、③貝吹(かいふき)の禁止、④村や道などに縄を張り村役人を付けること、の四か条を指示している。宝暦九年閏七月には、小川村の名主弥次郎が、鷹場預り案内に就任したことを幕府代官の伊奈半左衛門忠宥(いなはんざえもんただおき)に報告している。
これより早く、宝暦七年(一七五七)五月一二日、幕府は野方領触次の中野村名主の堀江卯右衛門を通じて大沼田新田に、幕府鷹匠が管理する千駄木鷹部屋(せんだぎたかべや)(現文京区)の御用として、蓬草(よもぎそう)一抱を四尺縄で結い、明一三日以後毎日夕方堀江方に届けること、中野村から千駄木部屋(せんだぎべや)(文京区)までの人足は中野村が差し出すことを達している。蓬草は、同五月一三日、同じく幕府鷹匠が管理する雑司ヶ谷鷹部屋(ぞうしがやたかべや)(現豊島区)の巣鷹御用(すだかごよう)の名目でも集められている。
宝暦九年閏七月には、幕府代官伊奈忠宥の家臣の中村孫市と青木又左衛門が、先の宝暦七年の御用蓬(よもぎ)の持ち送り人足への扶持米(ふちまい)を支給すると伝えている。寛政七年二月には、幕府代官の伊奈友之助忠富(いなとものすけただとみ)が、多摩郡の幕領・私領・寺社領の村々あてに、これまでの鷹の餌鳥請負人(えどりうけおいにん)を廃止し、水鳥問屋(みずとりとんや)六人に新たに鑑札を与え、もし六月以後古い鑑札で殺生する者がいたら、その場に留め置き、すぐに出訴するよう命じている。
天保一一年(一八四〇)七月二二日には、鷹場預り案内の當麻弥左衛門が、鷹方役所に対して、前日幕府鷹匠頭の戸田五助組の鷹匠四人が鷹二羽を連れて當麻管轄下の田無村に宿泊し、鷹の継ぎ送りはなかったが、出張して見張ったことを報告している。天保一二年八月一五日は、鷹場預り案内の當麻弥左衛門と井上紋治郎が、同役の村野栄左衛門他九名に対して、大納言(将軍家慶世嗣家定)が府中(現府中市)に川遊びにくるので、宿々の膳所や道筋などを調べたことを報告し、さらに諸事準備するように指示している。
天保一二年九月には、鷹場預り案内の當麻弥左衛門と井上紋治郎が、同役の村野栄左衛門他九名に対して、鷹場に殺生人がいた場合、従来通り幕府の鷹札、同餌鳥札、尾張家の鷹札で確認するように触れ、天保一三年四月には、最近鷹場内で雇餌差(やといえさし)の風紀が悪く、鷹場外の者を引き入れ殺生させ、手伝い・手先などと呼ぶ者を三、四人雇い鳥殺生をさせ、それを売るなどして、上納しない者がいる。今後は、それを見逃した村役人もふくめて、幕府勘定奉行の跡部能登守良弼(あとべのとのかみよしすけ)が罪科を申し渡すので、以後、鷹場を厳重に管理するよう命じている。幕府は尾張家鷹場の村々の支配にも、関与したのである。