さて、尾張家鷹場の農民は、尾張家と幕府の二重の支配を受ける立場を利用して、自らの主張を展開した。
a鷹場預り案内の身分・待遇の改善
まず、尾張家によって任命された鷹場預り案内が、身分・待遇の改善を要求して運動を行っている。文化七年(一八一〇)七月、鷹場預り案内と同見習一統は鷹野役所にあてて、尾張家鷹場と鷹場預り案内の由緒と待遇を述べ、享保の鷹場復活以後、五両の手当金はともかく、格式が十分でないと訴えている。自分たちは鷹場を預っているので、支配役人と掛け合うこともあり、鷹場預り案内一同の存在を幕府に認知されないと、尾張家内部(「手限之事(てかぎりのこと)」)の役職になってしまい、公式な役職(「表立候儀(おもてだちそうろうぎ)」)とみられず不都合であると述べている。たとえば、紀伊家鷹場では「山廻り(やままわり)」の職名で三人~五人扶持を与え、お目見え、熨斗目(のしめ)(麻裃(あさかみしも)の下に着る礼服)、肩衣(継裃)(かたぎぬ(つぎかみしも))を許し、幕府にも認知されている。尾張家の鷹場預り案内も、幕府に伝え、熨斗目と肩衣の着用を許してほしい。そうすれば、鷹場の取り締まりもよくなり、村役人との上下関係も明確になる、というものであった(史料集二一、二一三頁)。
文化一一年一二月、鷹場預り案内四人、同並二人、同見習五人、計一一人は鷹方役所にあて、右の文化七年と同じことを訴えている。とくに、近世前期に鷹場預りに選ばれた者は、浪人郷士の家柄で、入国以来民間に落ちて間もない時期であり、村々の彼らに対する扱いも格別であったと述べている。
また、年代は不明であるが、鷹場預り案内一統は、寛永年間(一六二四~四四)以来勤め、鷹狩りの際には、尾張家主君から直接声をかけられ、村々も帰伏していた。しかし、最近は在方の風俗が昔とは異なり、公事訴訟を企て、自分らを、「公事巧者(くじこうしゃ)」(裁判に巧みな者)などと自慢している。結局、鷹場預り案内は、幕府に認知されていない尾張家内の存在であるなどと乱暴なことをいう心得違いの者もおり、役職をないがしろにしている。このため、近年は殺生したり、御用人馬に支障も起きた。私たちの身分はどうでもいいが、「御家之御威光(ごいこう)ヲ軽候筋(かろんじそうろうすじ)にて、恐れ入りたてまつり候御儀に存じたてまつり候」と、尾張家の威光が軽んじられることが心配である。「公儀御留場(おとめば)にては野廻り役(のまわりやく)のもの仰せ付けられ差し置かれ」と、幕府鷹場では「野廻役」を置き、五人扶持とし、苗字帯刀御免、掛け合いの際は鷹匠支配誰組と記し、地方支配役所では代官手代と同じ待遇となっている。私たち鷹場預り案内は、お目見えは許されているが、今後は幕府にも役職を認められたい。そうすれば、さまざまな調査をする場合や、支配代官・領主・地頭とかけあう際にも都合がいいと主張している(史料集二一、二三一頁)。鷹場預り案内の身分や待遇をよくするとともに、幕府に認知されることが、鷹場支配を安定させることになると訴えているのである。
以上、鷹場預り案内は、将軍家や紀伊家の鷹場を引き合いに、尾張家に対して自らの地位や特権の回復・上昇をねらったのである。
b鷹場農民の役人批判
鷹場農民はまた、規制と負担の緩和を求めて鷹場役人の批判を展開した。
以下は年代不明の文書であるが、鷹場農民が鷹場預り案内・鳥見・餌差など鷹場役人への不満や批判を列挙している。まず冒頭で、鷹場預り案内は江戸の尾張家屋敷に出かける際に宿継人馬を利用しているが、先代まではそのようなことはなく迷惑しているという風聞を紹介し、もし村々が困窮し幕府に出願した場合、尾張家の「外聞(がいぶん)」にもかかわる。鷹場預り案内を多数任命する必要はなく、先代まで鷹狩りがあっても五人で勤めており、むしろ、「身元筋目等(みもとすじめなど)の御礼(おただ)しはこれ無く、地頭所(じとうしょ)の村役人あるいは富家(ふか)の百姓等へ御役義仰せ付けられ候」と、身元や筋目を調べず、旗本知行所の村役人や近年台頭してきた富農を「新役家」として鷹場預り案内に任命するため、名目だけの役職となり、事件が起きても捜査など行き届かず不都合になっていると主張している。そのうえで、①近ごろ鷹場では困窮した者が「花会(はなかい)」ととなえ、芝居・角力(すもう)・浄瑠璃などを催して人を集め、尾張家鳥見に金一〇〇疋、二〇〇疋の目録(上納金)を出している、幕府の鳥見はこのようなことは知らず不都合である、②水子村、立川村、保谷村の陣屋の尾張家鳥見関係の役負担は、正人馬ではなく買い上げるほうが農民にとってはありがたい、③近年鷹場内で雇餌差が殺生し、田畑を踏み荒らし、威光をもって無作法な取り計らいをするため、農民たちは難儀している、とも述べている。幕府の鳥見を引き合いに出しながら、鷹場預り案内の人数の多さと、「新役家」の仕事ぶりを批判し、鷹場農民の負担軽減を主張している(史料集二一、二三三頁)。
つぎも年代不明であるが、農民が鷹匠の横暴を、尾張家に訴えた史料である。冒頭で、鷹匠頭や鷹匠ら鷹場役人に不都合があった場合、遠慮なく密かに申し立てるよう指示されたことが記されている。そのうえで第一条は、先だって亀ケ谷村(かめがやむら)(現埼玉県所沢市)と南永井村(同)で殺生人がいたので、見廻り方が咎(とが)めたところ、殺生人は網を捨てて逃げた。見廻り方は、村役人を陣屋まで呼び出して厳しく取調べ、村役人が殺生人は村にいないと答えたところ、十手で打った。あまりにも厳しい詮議なので、村方は、「其上御公辺迄出訴(ごこうへんまでしゅっそ)ニおよひ候ハ、畢竟(ひっきょう)御鷹匠御頭衆見廻り方手切之取計故騒動(てぎりのとりはからいゆえそうどう)ニも相成候」と、幕府に出訴することを相談したが、鷹匠頭や見廻りの手限りの取り計らいのため深刻な騒動になりかねない、まずは鷹場預り案内の者たちに調査を依頼し、そこで解決できない場合、尾張家の下知(げち)(指示)があれば、騒動にはならない、と提案している。第二条は、鷹場預り案内の粕谷右馬之助と船津太郎兵衛の預り村で殺生人が出て騒動となった。この過程で、鷹匠頭と見廻り役人が、鷹場預り案内一同に相談せずに二人を免職したことは「気の毒」で、かえって事態を混乱させた。鷹場預り案内に調査を任せれば騒動にならず、鷹場の締まりもよくなるはずであったと述べている。
第三条は、二人の跡役として倉片助右衛門と新井代助が任命されたが、これについても、鷹場預り案内には連絡がなく、従来通り取り扱うようにという鷹匠組頭の指示が見廻りを通じてあった。従来通りというならば、退役する者たちは、「古役」の者に鷹合札、幕府鷹合札、餌鳥札、鷹場法度証文を返し、周辺の者がこれを補い、跡役を選ぶようにしてきた。そして、跡役が選ばれると、「古役」の者が鷹方役所に連れて尾張家の用人(ようにん)に披露し、「古役」立ち会いのうえで跡役に任命した。今回のやり方では、案内役が見廻り役のもとに置かれてしまい不都合であると、不満を述べている。
第四条は、鷹場の御用人馬について、最近は見廻り方が触れ当てているが、先の水夫(かこ)人足の触れ当ての際、見廻り方が水子陣屋の長屋の地主杢右衛門(もくえもん)と馴れ合い、不都合があった。そこで、鷹場二九か村が杢右衛門を相手取り、幕府に出訴し三奉行の判物(はんもつ)を頂戴したところ、鷹匠頭と見廻り方の扱いとされ、「公辺(こうへん)に相成り御屋敷様御外分(がいぶん)にも相成義御座候」と、幕府に対して尾張家の外聞にもかかわることになった。この結果、二九か村は鷹匠頭に書状を出したが、鷹匠頭は、「至(いた)って御立腹御叱(ごりっぷくおしかり)等これあるに付、惣代(そうだい)の者是悲無(ものぜひな)く御公辺(ごこうへん)へ出訴(しゅっそ)におよび」と激怒し、惣代はしかたなく幕府に出訴した。これも鷹場預り案内にいえば済んだことであると述べている。もし、「殺生人村役人を以て強き吟味等これあり候は水夫人足義(かこにんそくぎ)に付公辺迄出訴におよび候」と、今後殺生人や村役人などを厳しく詮議すると、水夫人足について幕府に出訴することになる。鷹場農民が、鷹場の任務に関して遺恨(いこん)をもっては、以後取締りが悪くなる。御用人馬については、見廻り役の取り計らいに不都合もある、今後鷹狩で清戸御殿(きよとごてん)に逗留する際は、御用人馬を勤めるので、一年に二度見廻り方と鷹場預り案内の両方で立ち会い、日締帳面を調査するようにしたい、と提案している(史料集二一、二三四頁)。ここでは、尾張家鷹場の農民が積極的に鷹場役人の不正を幕府に訴える一方、鷹場預り案内がこれを尾張家内部でおさめようと努力するようすがうかがえる。
天明四年閏正月には、廻り田村をふくむ多摩郡一九か村の名主・組頭・百姓代が、鷹場預り案内の小川弥二郎に対して、御用扶持米の給与を求めた。すなわち、「御鷹場の義は御公儀様同様の御義に存じ奉り、御用等大切に相勤め罷り在り候」と、鷹場は幕府と同じと考え、御用を大切に勤めてきたが、幕府からは鷹場人足や伝馬宰領(てんまさいりょう)、村役人が御用を勤める際は扶持米を与えられる。しかし、尾張家鷹場の御用人馬を勤めても扶持米は与えられない。今後は「御公儀様御同様」と、幕府鷹場同様に給付されることを求めている。ここでも尾張家鷹場農民が、幕府鷹場を引き合いに、扶持米給付を要求しているのである。この鷹場村々の農民たちの要求は、もちろん鷹場預り案内にとどまるものではなく、鷹場預り案内が尾張家に訴えることも求めたものである。
以上、尾張家鷹場の農民や鷹場預り案内は、尾張家の鷹場役人に対して、尾張家の外聞や幕府を引き合いに、鷹場の負担を軽減し、身分や待遇を向上させたのである。