幕末期の慶応三年(一八六七)四月二八日、幕府は関東村々の将軍家鷹場と捉飼場を無用のこととする鷹場廃止令を出した(『徳川禁令考』前集第三、第一五九三号)。五月一三日、廻り田新田では、将軍家鷹場の廃止をうけて、今後餌鳥請負人(えどりうけおいにん)の廻村はなく、餌差の廻村や宿泊もなくなったことなどが、関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)から触れられている。八月六日には、村々に渡していた餌鳥請負人や殺生人を確認するための判鑑を、支配者や領主が取り上げ焼き捨てるよう、幕府代官江川太郎左衛門英武(えがわたろうざえもんひでたけ)の役所から小川村その他の村々に触れられた。
こうして、寛永一〇年(一六三三)に設置された尾張家鷹場は、元禄期の一時中断をへて、二四五年後の慶応三年に廃止されたのである。