近世社会において、領主への年貢収納や諸役の負担は、村を単位として行われた。領主から出される法令の順守も、村を単位として遂行責任が求められていた。また、現在の戸籍に相当する内容を持つ宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)も、個々の「人」が記載されてはいるが、村ごとに作成されて領主に提出された。領主は、個々の「人」さらには個々人が属する「家」を個別に支配していたのではなく、村という「共同体」を支配していたのである。このような統治システムを「村請制(むらうけせい)」と呼ぶ。個々の百姓は、村を媒介として領主の支配を受けたのである。近世社会では、「村」という共同体の単位が支配の単位となり、個々人の生活の単位となって、社会システムの中心的な役割を果たしていた。
そして、個々の百姓や家をまとめる役割をになったのが村役人である。村役人は村請制をになう存在であった。たとえば、村請制の根幹ともいえる領主への年貢収納や諸役の負担の割り付けは、村役人が各家に対して行った(本章第二節)。また、領主の意向である法令や触(ふれ)などを、百姓に伝達する役割もになっていた。
一方で、村役人は村の百姓のまとめ役でもあり、領主に要望がある場合などは、村を代表して領主に対峙することもあった。村役人は村請制をになう存在であると同時に、村の代表者となって、さまざまな側面で近世社会の中心的な役割を果たしていたのである。とくに、近世の新田開発によって成立した村をまとめる村役人は、成立後の村がいかにして安定的に存続できるかを模索したと考えられる。近隣あるいは遠方のさまざまな地域から集まった百姓によって、村という共同体がつくられる場合、村役人には、各地域のさまざまな慣習を有する百姓たちを、うまくまとめていく資質も求められたであろう。
以下、本節では、現在の小平市域が、近世に成立した新田村によって構成されているという、それ自体が特徴的であることを念頭におきながら、村の運営や百姓とのかかわり方など、村役人が村をまとめていくようすをみていこう。