なお、玉川上水に架かる小川橋・久右衛門橋・喜兵衛橋・小金井橋の付近にも高札が立てられていた(図2-1)。この高札には玉川上水の利用や管理にかかわる内容が記されていた(本章第六節)。橋は往還の重要地点である。多くの人の目に触れる場所であったといえよう。
図2-1 玉川上水小川橋付近の高札
「玉川上水絵図」(部分)(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
新田村の高札場は、本村が近隣にある場合、本村の高札場と兼ねていることがあった。大沼田新田では、文政四年(一八二一)六月の村明細帳に、本村大岱村(現東村山市)と地続きのため、本村の高札場を利用していたことが記されている。ところが、本村が比較的近隣にあっても地続きではない廻り田新田では、明和七年(一七七〇)八月に、新田に高札が欲しいという旨の願書を作成した。願書には、高札を立てたい理由として、高札のある本村とは離れているため、新田に高札場がないと、村のなかではしだいに心得違いをする者も出てくる、ということが述べられている。しかし、この願いは聞き入れられなかったようで、廻り田新田の村明細帳などには、高札については一切記されていない。
いわゆる「大高札」とも呼ばれ、広く村々で立てられていた高札が、雑事・キリシタン・毒薬・駄賃・火付に関する五枚の高札であった。大高札は、近世初期には将軍の代替わりごとに書き替えられていたが、八代将軍吉宗以降になると書き替えないものもあったといわれる。ところが、高札は野外に立てられていたため、墨の文字がしだいに薄くなっていくこともあった。鈴木新田では、嘉永六年(一八五三)三月に代官勝田次郎役所へ、高札の文字の墨入願いを提出した。高札一枚のうち、文字が薄くなったのは四か所、「何事によらすと書き始め候」「切支丹宗門(きりしたんしゅうもん)と書き始め候」「鷹番(たかばん)の義と書き始め候」「在々におゐて鉄砲を持候ものと始め候」の部分であった。それぞれの条文のはじめの部分が読みにくくなっていたのである(鈴木家文書)。