村の掟

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領主からの法令や通達とは別に、村では百姓が守るべき取り決めを独自に作成していた。これは「村掟(むらおきて)」「村議定(むらぎじょう)」などと呼ばれる。村では機会があるごとに作成されたが、取り決めを文書に書き連ねるのみではなく、村の百姓全員(惣百姓)が承知したことを示す、連印証文(れんいんしょうもん)の形式で作成され、証文は名主のもとで保管された。小川村で正徳五年(一七一五)正月に作成された、全一三条の村掟の内容は表2-1の通りである。このうち、村政運営にかかわる特徴的な点について詳しくみてみよう。
表2-1 正徳5年(1715)の小川村の村掟
条目内容
1法度条目は日頃から承知して、しっかり守ること。
2公用や村継ぎの駄賃人馬は、決めた通りに勤めること。もし間違いがあったり遅れたりしたときは、知らせたうえで処罰を受けること。
3村寄合に遅れたり不参加になったりしないこと。連判手形証文を作成するときは1人で印を預からないように。寄合の時は自分で印を持参し、証文の内容を理解して捺印すること。後から証文の内容は知らないなどと言わないこと。印判を紛失したり替えたときは名主に断り、新しい印鑑を届けること。
4畑屋敷の売買や質地の書き入れは、内証で行わないこと。
5百姓間の出入を内済するときは、五人組組頭が立ち会い扱うこと。他所からの出入で贔屓があったときは申し出ること。出入の費用は当人が出し、村に関係する出入は村の費用とすること。
6行方知れずの者については、親類縁者や五人組の者でも宿泊させてはならない。
7屋敷や畑の境に植木をしてはならない。古くからの境が枯れてしまったときは名主・組頭が立ち会って確認すること。屋敷などで1本1枝でも盗まれたら申し出ること。
8五人組は条目通り心を通わせ、もし耕作や風俗でよからぬ者がいる時は注意し、受け入れない場合は名主・組頭へ申し出ること。組内で助け合うこと。遠方へ行くときは、五人組・名主・組頭へ断ること。
9博奕諸勝負は禁止。博奕宿などするものがいれば、五人組で必ず拒否し、受け入れない場合は申し出ること。
10分水は村の飲み水であり、きれいに使用すること。1年に1~2度、自分の屋敷の川浚いをすること。少しでも水を引いてはならない。
11馬の売買は決められた通りとし、口入を立てて、しっかり証文取引すること。
12火の番をしっかり勤めること。火事や盗みがあったときは駆け付けること。
13名主・組頭は非分があってはならない。村入用勘定はしっかり行い、惣百姓中の合意をえること。
正徳5年正月「相定申村中連判手形之事」(史料集2、p.15)より作成。

 第三条は、村寄合と証文作成、証文への捺印についての取り決めである。公用そのほかで村寄合がひらかれるときに、遅れたり不参加になったりしないこと、連判手形証文を作成するとき、一人で他人の印をたくさん持ってきてはいけない、これでは御触の内容が人伝えになって正しく理解しなくなる、とある。寄合に他人の印を一緒に持ってくる百姓が目についていたのであろう。また、取引手形証文などの内容を理解して捺印をしなさい、とあるのも同様であろう。この第三条からは、寄合や証文作成に際しての小前百姓(こまえひゃくしょう)のようすと、村役人たちがそれを問題視していたことがわかる。
 第五条は村の出入(でいり)についての取り決めで、内済(ないさい)(示談)は五人組組頭が立ち会って扱い、訴訟を起こすことを好んではいけないとしている。また村に関係する出入は、村が費用を出すことを決めている。
 最後の第一三条は、名主・組頭の非分(ひぶん)を規制するものである。村の費用である村入用はしっかりと吟味して、名主が預かっている入用帳には、少しの費目でも帳面に記し、勘定のたびに惣百姓へ伝えたうえで、費用を割り付けること、名主・組頭に対して納得できないことがあれば、遠慮なく名主へ伝えるように、という内容である。村の掟は小前百姓に対する規制だけではなく、名主や組頭などの村役人に対する規制もふくんでいた。
 小川村では、同様の内容をふくんだ村掟全一七条が、享保二一年(元文元年・一七三六)にも作成された。村掟は繰り返し作成され、村役人が読み聞かせ、小前百姓と共に掟を記した証文に捺印をして、内容を確認したのである。また、小川村では文政三年(一八二〇)に、前年の年貢未納をきっかけに、以後の年貢納入方法を「議定一札」として決めるなど(本章第二節)、状況に応じてさまざまな規定をつくっていた。
 このほかにも、生活上の注意事項ともいえる村掟もたびたび作成された。大沼田新田では、明和六年(一七六九)一〇月に、慶弔の行事での百姓の行動にかかわる掟が作成された。祝儀や婚礼の際に酒盛りで長居しないこと。高声口論を慎み、酒盛りが済んだらすぐに帰るように。不幸や仏事法要などで施主から酒を出された時に、大酒を飲み高声で口論をして、菩提寺や村役人の前でもお構いなしの者がいるが、隣村への外聞も悪く、施主も難儀する。今後、祝い事は別として、仏事で酒を買うことは厳禁とする、というものであった。何かの機会で百姓が集まるたびに酒宴を催しており、喧嘩口論なども増えて、村役人を困らせることが多かったのだろう。村の百姓の風紀が乱れてきたことを理由に、これを規制する内容の村掟がたびたび作成されたのである。

図2-2 村掟の百姓連印部分
正徳5年正月「相定申村中連判手形之事」(史料集2、p.15)