寛政六年(一七九四)の村入用帳によれば、一年間の村入用は八貫三四三文であった(表2-2)。また、四五九文を尾張藩から入用金として受け取ったとある。尾張藩の鷹場となっていたことで渡されたものだろう。しかしこの年、尾張藩のためにかかった入用は合計八〇〇文で、その半分程度しか支給されていないことになる。村では尾張藩から支給された入用金を差し引いた残りを、村の百姓の持高一石につき二六文四分七厘の計算で割り付けた。
表2-2 大沼田新田の村入用(寛政6年) | ||||
月 日 | 内容 | 金額 | 立て替えた百姓 | |
1 | 筆墨紙代 | 1貫200文 | ||
2 | ごぜ座頭へ | 500文 | ||
3 | 1月20日 | 下保谷村陣屋へ出頭入用 | 200文 | 組頭弥右衛門 |
4 | 小檜村案内へ出頭入用 | 100文 | 組頭弥右衛門 | |
5 | 猪鹿追散願へ出頭入用 | 279文 | 組頭弥右衛門 | |
6 | 1月25日 | 廻田村へ御用状継ぎでの蝋燭2丁代金 | 32文 | |
7 | 2月6日 | 清戸村までの伝馬賃銭 | 200文 | 伊八 |
8 | 2月10日 | 関野新田までの伝馬賃銭 | 100文 | 宇兵衛 |
9 | 2月17日 | 樋口についての問い合わせのため惣代入用 | 180文 | |
10 | 3月10日 | 宗門帳上納入用 | 700文 | 名主弥左衛門 |
11 | 3月29日 | 小檜村案内へ出頭入用 | 74文 | 組頭弥右衛門 |
12 | 4月1日 | 野中新田へ廻状継ぎでの蝋燭1丁代金 | 16文 | |
13 | 4月4日 | 尾張藩御用で江戸出頭入用 | 200文 | 太右衛門 |
14 | 4月16日 | 野中新田へ廻状継ぎでの蝋燭1丁代金 | 16文 | |
15 | 4月21日 | 柳久保新田へ廻状継ぎでの蝋燭1丁代金 | 16文 | |
16 | 5月4日 | 樋口御用の出頭入用 | 48文 | 組頭弥右衛門 |
17 | 6月10日 | 小檜村案内へ出頭入用 | 48文 | 組頭弥右衛門 |
18 | 6月13日 | 上水子村御用の入用 | 164文 | 伊左衛門 |
19 | 夏成年貢上納入用 | 700文 | ||
20 | 6月15日 | 樋口普請入用 | 100文 | |
21 | 野火留村御用の入用 | 32文 | ||
22 | 一昨年の牢屋入用 | 214文 | ||
23 | 一昨年の包分銀 | 108文 | ||
24 | 6月18日 | 玉川上水御用の入用 | 32文 | 組頭弥右衛門 |
25 | 7月9日 | 保谷村陣屋へ出頭入用 | 48文 | 組頭弥右衛門 |
26 | 7月26日 | 代田橋まで出頭入用 | 88文 | 年寄伝兵衛 |
27 | 7月27日 | 保谷村・小檜村へ出頭入用 | 48文 | 名主弥左衛門 |
28 | 8月8日 | 樋口御用の入用 | 32文 | 組頭弥右衛門 |
29 | 9月10日 | 秋成年貢上納入用 | 700文 | |
30 | 9月20日 | 案山子願の入用 | 200文 | 組頭弥右衛門 |
31 | 10月2日 | 愛宕山伝馬銭 | 100文 | 名主弥左衛門 |
32 | 尾張藩伝馬賃銭 | 300文 | 金次郎 | |
33 | 10月3日 | 尾張藩伝馬賃銭 | 300文 | 卯兵衛 |
34 | 所沢村まで廻状継ぎでの蝋燭2丁代金 | 36文 | ||
35 | 11月10日 | 年貢勘定入用 | 500文 | |
36 | 年貢皆済上納入用 | 700文 | 名主弥左衛門 | |
合計 | 8貫343文 | |||
寛政6年正月「寅年村入用帳」(史料集29、p.180)より作成。 |
村入用として書き上げられた項目は、まず、一年中かかる費用として、文書作成のための筆墨紙代、瞽女(ごぜ)や座頭(ざとう)へ渡す銭があり、合計一貫七〇〇文が計上されている。このほか、下保谷村(現西東京市)陣屋へ出張する費用、廻り田村(現東村山市)へ書状を継ぎ送ったときの蝋燭代、清戸村(きよとむら)(現清瀬市)までの伝馬銭(てんません)など、他村への出張経費といえる費目が多い。また、猪鹿を追い払うための願書や宗門帳上納のための費用など、領主への書状提出にかかる費用もある。これらは名主や組頭を中心に立て替えられ、村の必要経費として計算したのち、百姓に割り付け、集めた上で、払い戻されたのであろう。
弘化四年(一八四七)の村入用帳にも寛政六年の村入用帳と同様の内容が記されている(表2-3)。この年は、尾張藩の鷹場関係役人がたびたび来村、宿泊している。二月二〇日に二人、四月二七日に五人、閏五月二日に一人、さらに七月七日には、鷹匠二人ほか一〇人の宿泊のための費用が算出されている。一年間の村入用は五五貫五二九文で、百姓の持高一石につき、一八六文五分の計算で割り付けられた。時代がくだるにつれ、百姓の村入用に対する負担も増加していったのであろう。
表2-3 大沼田新田の村入用(弘化4年) | |||
月 日 | 内容 | 金額 | |
1 | (年中入用) | 名主給 | 永1貫600文 |
2 | 定使給 | 永2貫500文 | |
3 | 筆墨紙代 | 金1分 | |
4 | 瞽女へ | 銭1貫文 | |
5 | 水油蝋燭代 | 金2朱 | |
6 | 役桃灯一張 | 銭248文 | |
7 | 1月9日 | 下保谷村陣屋へ年始出頭入用 | 銭300文 |
8 | 1月14日 | 分水樋口普請のため鈴木新田へ | 銭152文 |
9 | 1月15日 | 取締御用のため田無村へ | 銭272文 |
10 | 2月6日 | 下保谷陣屋詰役人2名の昼食代 | 銭148文 |
11 | 2月20日 | 鷹場吟味役森栄左衛門役人2名宿泊代 | 銀6匁 |
12 | 上記につき、木銭米代の下付 | 銭152文 | |
13 | 3月11日 | 分水樋口普請のため鈴木新田へ、廻状継の夜中蝋燭代 | 銭80文 |
14 | 尾張藩鷹場懸り御用人足買い上げ賃 | 金1分 | |
15 | 3月28~30日 | 宗門人別帳上納出府入用 | 金1分 |
16 | 4月19日 | 酒干粕出来揚につき出府入用 | 金1分 |
17 | 4月25日 | 取締道案内の給分(田無村へ差し出す) | 銭1貫81文 |
18 | 上記につき、出張の入用 | 銭120文 | |
19 | 4月27日 | 尾張藩鷹場吟味役3名ほか仲間2名宿泊代 | 銀15匁5分 |
20 | 上記につき、木銭米代の下付 | 442文 | |
21 | 閏5月2日 | 尾張藩陣屋詰役人宿泊代 | 銀3匁5分 |
22 | 閏5月24日 | 貯穀見分のための府中宿への宿泊代、入用 | 金2朱 銭520文 |
23 | 上記につき、昼食、雑用 | 銭132文 | |
24 | 6月9~11日 | 夏成年貢上納入用 | 金1分 |
25 | 御用状を夜に砂川村まで出したときの蝋燭、外雑用 | 銭48文 | |
26 | 7月7日 | 尾張藩鷹匠2名ほか10名宿泊代 | 銀32匁 |
27 | 上記につき、木銭米代の下付 | 銭732文 | |
28 | 7月27日 | 布田宿普化宗安楽寺住僧の引っ越しのため寄進 | 銭200文 |
29 | 9月7日 | 上記につき、見廻り料 | 銭100文 |
30 | 9月16~18日 | 秋成年貢上納出府雑用 | 金1分 |
31 | 9月23日 | 布田宿普化宗安楽寺未年分切立替 | 銭400文 |
32 | 10月16日 | 取締御用で田無村へ、昼食・紙代・茶代 | 銭148文 |
33 | 10月22日 | 御普請御用のため伝馬1疋・人足1人、鈴木新田から継ぎ立て | 銭500文 |
34 | 10月29日 | 尾張藩陣屋詰役人宿泊代 | 銀3匁5分 |
35 | 12月 | 冬成年貢上納出府雑用 | 金1分 |
36 | 年貢皆済勘定の立会人飯料、外諸入用 | 銭2貫文 | |
37 | 1月~12月 | 廻状飛脚賃人足の夜中蝋燭代 | 銭318文 |
38 | 座頭へ | 銭358文 | |
39 | 諸寺社勧化 | 銭2貫508文 | |
合計 | 55貫529文 | ||
*弘化4年3月「去午年村入用帳」(史料集29、p.249)より作成。 * は収入を示す。 |
大沼田新田の村入用は、寛政一〇年以降、瞽女や座頭へ渡す銭のほかに、「勧化(かんげ)」(寄付)のための費用が増加していた(史料集二九、一八七頁)。寛政一〇年には、筑波山勧化・善光寺勧化・六合大師勧化・嵯峨法輪寺御免勧化・熊野御免勧化、寛政一二年には、美濃国八草大明神勧化・出羽国最上諏訪明神勧化など、遠方の神社の勧化入用も支払っている。また、文化四年(一八〇七)の村入用帳には、「浪人」へ三六文、二四文、六四文などを渡したという記録も目立つ。村へやってきた浪人者に対して、食事を出すこともあったのだろう。大沼田新田だけではなく、廻り田新田の村入用帳にも「浪人泊り」代として一〇〇文が計上されている(史料集二九、三六八頁)。村ではたびたび宗教者や浪人者を宿泊させており、その費用は村の経費として扱われていた。村へくる浪人者の増加、そして村の対応は、一九世紀の社会の一側面を示すものでもある(本章第五節3)。
なお幕末期の鈴木新田の村入用帳によれば、嘉永五年(一八五二)から安政三年(一八五六)のわずか五年間で、村入用が二倍以上に増加していることがわかる(表2-4)。安政期には、それ以前にはなかった遠馬接待費などの新しい支出が計上され、「名主出役小遣」など名主の出張費用も増加している(史料集二九、一七一頁)。名主は頻繁に、支配役所がある江戸や近隣遠方の村々へ出かけ、書状の継ぎ送りや、広域の村々での寄合に出席していたのであろう。幕末期の政治や社会の変化が、村入用にも影響をあたえたことを示すものである。
表2-4 鈴木新田の村入用内訳 | |||||
分類 | 細目 | 嘉永5年(1852) | 嘉永6年(1853) | 安政3年(1856) | |
代官所関係 | 年貢勘定・取立入用 | ○ | |||
年貢上納出府入用 | ○ | ○ | ○ | ||
伝馬・人足入用 | ○ | ||||
御栗・桜木上納 | ○ | ||||
(比率) | (5%) | (5%) | (26%) | ||
関東取締出役関係 | 寄場入用 | ||||
(出役接待費、宿泊費など) | ○ | ○ | ○ | ||
(比率) | (7%) | (6%) | (2%) | ||
玉川上水関係 | 玉川上水関係費 | ||||
(草刈り、芥揚人足賃、桜植付見分泊入用など) | ○ | ○ | ○ | ||
(比率) | (17%) | (9%) | (7%) | ||
鷹場関係 | 鷹場入用 | ||||
(鷹場役人接待費など) | ○ | ○ | ○ | ||
(比率) | (7%) | (8%) | (5%) | ||
その他支配関係 | 遠馬接待費 (桜見分役人など) | ○ | |||
(比率) | (8%) | ||||
村内関係 | 名主給分 | ○ | ○ | ○ | |
名主出役小遣 | ○ | ||||
名主出府入用 | ○ | ○ | |||
定使給金 | ○ | ○ | ○ | ||
飛脚銭・ろうそく代 | ○ | ○ | ○ | ||
筆墨代 | ○ | ○ | ○ | ||
桃灯張替代 | ○ | ||||
貯穀敷地地代 | ○ | ||||
風災見分臨時入用 | ○ | ||||
(比率) | (43%) | (57%) | (39%) | ||
村の交際 | 勧化・合力 | ○ | ○ | ○ | |
普化宗留場見廻り料 | ○ | ○ | ○ | ||
江戸宿への年頭・歳暮 | ○ | ||||
(比率) | (21%) | (15%) | (13%) | ||
総額(単位:貫.文) (比率) | 96.033 (100%) | 108.328 (100%) | 205.382 (100%) | ||
*伊藤好一「幕末期における鈴木新田の村入用」所収の表をもとに作成。 *支出のあったものを「○」で示した。 *各年ごと、各分類が占める割合を(%)で示した。 *史料は鈴木新田の村入用帳(史料集29、p.167・169・171)。 |