幕府は、村を支配の基礎単位、支配の末端機関として、その代表に村役人を据えた。一方、村の人びとにとって村役人は、村の安定のために活動する、村運営の責任者であった。村役人は村社会、さらには近世社会の要ともいえる。ここではあらためて、村役人のすがたをみてみよう。
村役人は、村方三役(むらかたさんやく)あるいは地方三役(じかたさんやく)と呼ばれる、名主(なぬし)・組頭(くみがしら)・百姓代(ひゃくしょうだい)の三つの役が基本とされ、彼らによって村の運営が行われていた。村役人の仕事は、支配の末端機関の責任者として、前述したような領主からの法令の伝達を行い、村役人以外の小前百姓にもこれを順守させることや、年貢諸役の割り付けと収納などに責任を持つことが第一とされた(本章第二節)。一方、村のなかでは、入会地や用水の管理、村入用の勘定など、共同体を維持する村の統治責任者としての役割が期待された。また、村や地域のさまざま事件を解決する立場でもあった(本章第七節)。そしてこれらの仕事は、文書の作成と切り離せないものであった(本章第九節)。村役人のなかには、玉川上水見廻り役や鷹場預り案内を勤めた小川家、同じく鷹場預り案内を勤めた大沼田新田の當麻家など、一つの村にとどまらない広域的な地域の役割をになう者もいた(本章第六節・第八節)。
このように、多忙を極めたともいわれる村役人を勤めるには、一定の資質が求められた。読み書き・そろばんなどの筆算(ひっさん)がしっかりとできること、まじめな人柄であることなどである。支配が求めた村役人の心得を示すものとして、小川村で作成された、正徳二年(一七一二)一二月付の証文の雛形が残されている。その内容はつぎの通りであった。①支配からの法令を守ること、②小前百姓に無益な掛物を一切割り掛けないこと、③代官の手代が御用のために村々を巡回する際、馳走などのもてなしはしない、ありあわせのもの以外の酒肴などは出さない、「賄入用(まかないにゅうよう)」などとして百姓への割り掛けをしない、もし無益な割り掛けをされた百姓がいたら必ず申しひらきをする、以上三か条である(史料集一八、一〇二頁)。法令を守ることはもちろんであるが、代官役人に対する無用な接待や、村役人が百姓たちへ不法に負担を強いるようなことを規制する内容である。幕府は近世初期から、村役人が小前百姓へ不法な割り掛けを行うことを禁じていた。村役人がその地位を利用して、専横なふるまいをすることは、常に規制の対象となっていたのである。