大沼田新田の村運営-名主と年寄-

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村運営の方法や村役人の設置は、村によって異なるといってよい。新田村成立後の大沼田新田の村運営のようすをみてみよう。大沼田新田では安永年間(一七七二~八一)に、本村大岱村から弥左衛門家の弥十郎が入村し、相名主を勤めていた伝兵衛が安永三年(一七七四)に死去したこともかかわったものか、遅くとも安永七年以降、後継の伝兵衛が「年寄」の肩書きをもって、村政にかかわることになった(第一章第二節5)。
 残された史料によれば、寛政一一年(一七九九)以後、弘化二年(一八四五)にいたるまで、名主弥左衛門、年寄伝兵衛の二家による村運営の体制が継続、これに百姓代を加えた、名主・年寄・百姓代の三名のみによって、各種の提出文書への署名捺印が行われている。この期間、「組頭」の肩書きがみられないことは大沼田新田の村役人制度の特徴である。百姓代については検討できる史料が少なく、その活動は具体的には不明であるが、寛政期以後、大沼田新田の村役人体制は安定し、名主弥左衛門家と年寄伝兵衛家、開発人の家である二家を中心として村運営が行われていた。
 天保一二年(一八四一)六月、村の出入のため、弥左衛門と伝兵衛の両者が江戸へ出府していた際に、大沼田新田の百姓と小川新田の百姓との間で別の出入が発生した(本章第七節4)。支配代官から出頭を命じる差紙(さしがみ)が届けられ、関係者の江戸への出頭日が指定された。ところが、差紙に対応する村役人が二人共、出府中であるため、村から知らせを受けた弥左衛門と伝兵衛は、互いが訴訟の相手方となっていたにもかかわらず、連名で代官役所へ願書を提出した。「訴訟のために出府中であるが、別の訴訟が起こり、村としての対応に差し支えるので一旦帰村したい」という内容であった。
 また天保一三年三月、差紙をめぐって、弥左衛門が伝兵衛を訴えた。訴状には「当村の儀は、外村役人これ無く、右弥左衛門・伝兵衛両人限りの儀に付」、すなわち、村にはほかに村役人はおらず、弥左衛門と伝兵衛の二人だけであると記されている(史料集一七、一一五頁)。大沼田新田の村役人体制を如実に示すことばである。この訴状で問題にされていたのは、本来ならば役所からの差紙がきた場合、二人の村役人にみせることになっていたが、伝兵衛は訴訟相手でもあったため、伝兵衛宅への差紙の持参をやめていたということであった。これに伝兵衛が苦情を出したため、弥左衛門が訴えを起こしたのである。名主と年寄の両者は、対立関係にあった一方で、共に御用を勤め、村政運営のために協力しなければならなかったのである。
 村政実務を行う名主と年寄の間では、村政にかかわる書状がしばしばかわされていた。弥左衛門が病気のときは、代理として伝兵衛が江戸へ出府した。また、役所から触が届き、弥左衛門が留守であったときは、受け取りの捺印を伝兵衛が行うこともあった。このようなことが不便であると考えたのか、弥左衛門から伝兵衛へ、村役人について相談を持ちかけた書状もある。そこには「自分たち以外には百姓代もいないので、あらゆることに差し支えている」と記されている。百姓代がいない、とあるのは百姓代の実態がなかったということであろうか。また「かねてから相談しているが、互いに相談してほかの村役人を立てるか、当分の仮役を決めるようにと役所から沙汰があった」という。支配役所でも、村役人が二人だけであることに、懸念を示していたようである。弥左衛門も打開策が必要と考えていたのだろう。このことを伝兵衛に直接相談したい旨を記している(当麻伝兵衛家文書)。弥左衛門は、村政運営を安定的に行う方法に苦慮していたのだろう。