大沼田新田の組頭設置

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結局、大沼田新田の組頭役は、年寄伝兵衛が村政運営から離れたことを契機に設置された(本章第七節4)。大沼田新田の一〇年にも及ぶ出入が終結したとみられる弘化二年(一八四五)一一月、伝兵衛が村政を離れると同時に七郎左衛門、勘左衛門の二名が組頭役を仰せ付けられた。七郎左衛門と勘左衛門はその後、一七年間、組頭を勤めた。ところがその間の安政五年(一八五八)に、再び伝兵衛が年寄として村政に携わるようになり、文久二年(一八六二)には、名主と年寄のみの村役人体制に戻っている。伝兵衛家は年寄として村政に携わるものという意識が、村のなかで強固に存在していたことも考えられる。村の開発人の家であることは、村においては重要な由緒となっていたのだろう。
 その後、慶応三年(一八六七)四月、御用や村用が二人では手が回らなくなったとして、再び組頭二名を設置した。その際、村役人が四人になっても「新古の差別これ有るに付」、すなわち「村役人には新旧の別がある」として、名主と年寄の席順は守り、それぞれがすべてを通達して村政を睦まじく行うことを、弥左衛門と伝兵衛の間で取り決めている(史料集一八、一六八頁)。