さて、村運営の要となる村役人はどのように決まり、どのように交替するのだろうか。幕末期の大沼田新田の組頭役の新設は特殊な事例と考えられ、現在の小平市域にふくまれる各村の村役人は、ほぼ固定的に「家」で世襲、村役人の数も固定化されていたようである。名主は村の開発人の家が勤め、組頭については後述するように、開発初期に村へ移住していた「年寄」と呼ばれる家を中心としていた。野中新田善左衛門組で、安政五年(一八五八)に組頭役決定を不服とした騒動が起こったこともあるが、村役人の交替は世襲を基本として、比較的穏便に行われたようである。家の跡継ぎが若年の場合、大沼田新田の弥左衛門家の忰翁助のように、「名主見習」を勤めることもあった。
村役人の交替時には、退役願(たいやくねがい)、跡役願(あとやくねがい)などを領主に提出する必要があった。その際、跡役となる理由に「平日実体(へいじつじってい)」、すなわち普段からまじめであること、「筆算等も出来成られ候に付」、すなわち読み書きそろばんもできるので、村役人に適していると記すことが多い(史料集一八、一七五頁)。これらは村役人を勤めるために必要な資質であった。これらの願書を出すためには費用も必要で、小川村では文化一五年(文政元年・一八一八)四月、名主交替に際して村の百姓が支払った銭を書き上げた、「名主退役跡役願入用割合帳」という帳簿も残されている(史料集一八、一一四頁)。