明和七年(一七七〇)三月、小川村の組頭善兵衛が、「身上不如意(しんじょうふにょい)」と「壱人身(ひとりみ)(独身)」であり、勝手が悪いので組頭役は勤められないとして、退役を申し出た(史料集一八、一〇九頁)。しかし名主弥次郎からは、善兵衛家はこれまで数代にわたって組頭役を真面目に勤めてきた家であり、今後も組頭役を勤めて欲しいと言われていた。善兵衛は再三にわたり退役を組の者へ相談し、まずは休役とし、親類へ組頭役を預けて欲しいと懇願したため、申し出が聞きいれられた。善兵衛は名主弥次郎に対して、組頭役は親類でもそのほかの百姓でも、弥次郎の「御眼鏡(おめがね)」によって申し付けてもらってかまわないとしている。そこで、善兵衛が組頭を勤めていた組の二四名のうち、善太郎に組頭役を依頼した。善太郎は一旦辞退したものの、組の百姓が懇願した結果、組頭役を引き受けた。一旦辞退した理由は不明であるが、善太郎は組頭役を引き受け、これを機に「政右衛門」と改名した。小川村では明和九年(安永元年)九月にも、又右衛門組の組頭が退役を願ったため、名主弥次郎の「御眼鏡」によって、別の者へ組頭役を申し付けて欲しいと依頼している(史料集一八、一一〇頁)。
また寛政五年(一七九三)正月、組頭のいない「明(あ)キ組」となっていた小川村上宿(かみじゅく)組では、組頭五郎兵衛が退役し、御用向きに差し支えるので組頭を置くように言われた。ここでも上宿組の市右衛門ら二九名は、当時の名主弥四郎の「御眼鏡」によって、誰へ組頭役を申し付けてもかまわないとしている(史料集一八、一一二頁)。「御眼鏡」という表現は、名主小川家と百姓たちの関係を示す、興味深いことばである。百姓たちは、組頭決定にあたっては名主の意向が重要と考えていたのであろう。
ところが弥四郎の方は、自分の独断で組頭役を決めることを望んでいないようすであった。同年二月の証文によれば、弥四郎は、組内が睦まじくすることが第一で、多くの者が組頭に適していると考える者に申し付けたいと考え、組頭役は組中での入札(いれふだ)、すなわち投票によって決めたという。百姓たちは名主の意向を第一としたが、一方の名主は組の百姓の意向を重視していたといえよう。名主は自分が指名するかたちではなく、組の安定のために、できるだけ組内部の意見を聞きたいという思いがあったのだろう。入札の結果、組頭は郷右衛門となったが、郷右衛門はすでに跡継ぎに家を譲り、自身は老衰し落髪しており、不眠もあるから不適であるとしたため、二番目の落札者に組頭役が決まったという。
なお小川村では、つぎの組頭役が決まるまでは、組内の「触番(ふればん)」の順番で、一時的に役を勤めることもあった(史料集一八、一一一頁)。