鈴木新田名主の交替

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嘉永三年(一八五〇)、鈴木新田の村役人交替についての願書には、鈴木新田は「名主壱人・組頭六人にて御用・村用共勤め来たり」、すなわち「名主一名と組頭六名で御用や村用を勤めてきた」とある(史料集一八、一四三頁)。万延元年(一八六〇)九月の願書にも同様の内容が記されており、鈴木新田の村役人は、名主一人・組頭六人の体制が基本であったのだろう。
 鈴木新田は開発初期、野中新田にふくまれたこともあったが(第一章第二節3)、開発以来、しばらくは利左衛門家が名主役を世襲していた。ところが天明三年(一七八三)、利左衛門が名主を退役した。そこで組頭たちは、名主役についての相談を行った。相談の結果はつぎの通りであった。「一人で名主役を勤めようとするものはいないため、小前百姓からは、年寄のなかから一年ずつ年番で勤めて欲しいと依頼があった。支配役所へは組頭の年番で勤めたいと願っているところである。今のところその返答はないが、どういう指示が出されても組頭の七人でかけもちとし、すべて相談で決める。村用のための旅費など、路用(ろよう)などがかかった場合も七人で支払うなど、すべて組頭で行う」(深谷家文書)。開発人の家である利左衛門の跡を受けて名主役を勤めるのは、組頭にとっては重荷であったのだろうか。年寄(組頭)の勘七・定右衛門・長右衛門・太郎七・勝右衛門・折右衛門・佐五右衛門の七名によって、利左衛門の跡役を協同で勤めることになったのである。ここでいう「年寄」は、鈴木新田で「開発の由緒を持つ家の百姓」「最も初期の段階で入村した由緒を持つ百姓」という意味で使用されたものであろう。宝暦一一年(一七六一)「出百姓国郡村名覚帳」によれば、七名のうち、勘七・定右衛門・長右衛門は、享保一一年(一七二六)の鈴木新田への最初の入村百姓であり、太郎七・勝右衛門・佐五右衛門は、翌享保一二年の入村百姓である(深谷家文書)。彼らは「組頭」として、すでに役所へも年番勤めを相談していた。そして、役所からの指示はどうであっても、この七人が交替で名主役を勤めるという約束をしたのである。
 ところが、実際に名主役を勤めたのは七名の年寄のうちの定右衛門であった。定右衛門は鈴木新田に最も早く移住した家の一つである。定右衛門は、安永六年(一七七七)二月、廻り田新田に届いた廻状の扱いをめぐって起きた事件の扱人になるなど、鈴木新田の年寄であると同時に、その調整能力が村内外でも認められていたのかもしれない。定右衛門は天明四年以降、文化九年(一八一二)まで名主を勤めた。
 その後、定右衛門は病気になったことを理由に名主を退役し、再び利左衛門家が名主を勤めることになった。文化九年二月の願書には以下のようにある。「名主定右衛門が病気で名主役を勤めることができなくなった。そのため惣百姓が相談し、元名主利左衛門の跡を継いだ重蔵を、真面目な人柄でもあるからつぎの名主として認めて欲しい」(深谷家文書)。願書からは、開発人利左衛門家の者であるということはとくには記されず、「実体」すなわち真面目な人柄であることが重視されていることがわかる。これ以降、明治にいたるまで、名主役は再び利左衛門家が勤めた。
 ところで、病気を理由に名主を退役した定右衛門は、退役願が出された直後の五月に死去した。その忰定右衛門は、文化一四年六月に野中新田と関野新田(現小金井市)の村境争論の内済を行っている(深谷家文書)。定右衛門家の地域のまとめ役としての能力は、引き続き発揮されていたのであろう。村役人や年寄などの家は、このような調整者としての期待を周辺地域から持たれていたのであろう。