村役人が交替するのではなく、組の百姓の入れ替えが行われることもあった。宝暦四年(一七五四)四月のことである。野中新田の組頭義兵衛は、組下の百姓八人をまとめる組頭であったが、百姓のうち七兵衛と清次郎の二人は、普段から義兵衛とは仲が悪かったため、義兵衛が訴えを起こした。双方が江戸に呼び出され、郷宿(ごうやど)の扱いや名主善左衛門などの立ち会いで、七兵衛と清次郎からも事情を聞いた。その結果、彼らを組頭と組下百姓の関係にしたままではうまくいかないと判断したようである。義兵衛の組から両者を除き、義兵衛の組は六名とし、七兵衛・清次郎は名主善左衛門の判断によって、ほかの組に入ることで双方が納得した。義兵衛と二人の百姓に何があったのか、詳しい事情は不明であるが、組頭とその組下の百姓の関係が悪化したことを理由に、「組替え」が行われることもあったことがわかる。