村の五人組

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近世の村では、年貢納入や犯罪防止などの連帯責任を負うため、数戸ずつの家によって「五人組」が編成されていた。ところが、前述の野中新田義兵衛の組のように、組内の戸数は八戸あるいは六戸など、五戸の家によるものとは限らなかった。しかも義兵衛組のような組は、支配政策の求めた「五人組」とは異なり、生活や生産において実質的に機能していた「組」であった可能性もある。支配政策上では、組頭は五人組の「頭」という位置づけであったが、大沼田新田の組頭は幕末の一時期に置かれていたのみであるなど、村によっては、五人組の組頭とは意味合いの異なる組頭が設置されていたのである。大沼田新田の百姓は、分水路を基準とした位置によって「上分」と「下分」の二つに分けられることもあり、村の北東地域の九軒の百姓を「裏通百姓九軒」と呼ぶこともあった(史料集二五、二二一頁)。支配政策で設定された「五人組」だけではなく、百姓の生活実態に即した地域のまとまり、家のまとまりが存在していたのである。
 このように、実際の共同組織として機能していた「組」がある一方で、領主に対しては、毎年五人組帳を作成、提出していた。大沼田新田の五人組帳をみると、前書きを承諾したことを示す請印(うけいん)部分は、五人ずつの組となって連印している(図2-3)。この五人組の編成は、図2-4のような組み合わせとなっていた。江戸街道に沿って居住していた百姓は、街道をはさんだ近隣の家で五人組を編成、あるいは街道沿いで編成されることもあった。江戸街道沿いではない九軒も、道をはさみ近接した家で五人組と四人組を編成している。なお名主弥左衛門家は五人組にはふくまれていなかった。

図2-3 大沼田新田の五人組帳 請書部分
天保14年3月「五人組帳控」(當麻家文書)

大沼田新田の五人組概念図
図2-4 大沼田新田の五人組概念図

 五人組の編成のあり方は村によって異なり、小川村の五人組は青梅街道の南北の家並みを、北側の西端の一軒目から五軒目までを一番組、その隣の六軒目から一〇軒目までを二番組と数え、東端に到達したのち、再び西端へ戻り南側の一軒目から五軒目を一つの五人組として設定していた。しかし、必ずしも五軒ずつの編成ではなく、五人組帳にも「六人組」「七人組」などの記載がある(小川家文書)。また廻り田新田は家数が少なかったためか、五人組帳には組分けの記載がない。