このように、実際の共同組織として機能していた「組」がある一方で、領主に対しては、毎年五人組帳を作成、提出していた。大沼田新田の五人組帳をみると、前書きを承諾したことを示す請印(うけいん)部分は、五人ずつの組となって連印している(図2-3)。この五人組の編成は、図2-4のような組み合わせとなっていた。江戸街道に沿って居住していた百姓は、街道をはさんだ近隣の家で五人組を編成、あるいは街道沿いで編成されることもあった。江戸街道沿いではない九軒も、道をはさみ近接した家で五人組と四人組を編成している。なお名主弥左衛門家は五人組にはふくまれていなかった。
図2-3 大沼田新田の五人組帳 請書部分
天保14年3月「五人組帳控」(當麻家文書)
図2-4 大沼田新田の五人組概念図 |
五人組の編成のあり方は村によって異なり、小川村の五人組は青梅街道の南北の家並みを、北側の西端の一軒目から五軒目までを一番組、その隣の六軒目から一〇軒目までを二番組と数え、東端に到達したのち、再び西端へ戻り南側の一軒目から五軒目を一つの五人組として設定していた。しかし、必ずしも五軒ずつの編成ではなく、五人組帳にも「六人組」「七人組」などの記載がある(小川家文書)。また廻り田新田は家数が少なかったためか、五人組帳には組分けの記載がない。