鈴木新田で名主と共に村運営をになっていたのは、開発初期に入村した、村の「草分(くさわ)け」的な百姓を中心とする、「年寄」と呼ばれていた六~七名の組頭であった。鈴木新田は、玉川上水をはさんで北の「下鈴木(しもすずき)」と南の「上鈴木(かみすずき)」、二つの地域に分かれていたため、組頭もそれぞれに置かれていたようである。鈴木新田の家数は一一〇軒前後であったから(本章第四節)、約一八軒に一人の割合で組頭が置かれていることになるが、実際には下鈴木に五名、上鈴木に一名の組頭が置かれていた。上鈴木の全二五軒を一組として、組頭一名が置かれていたのである。上鈴木の組頭をめぐる文政七年(一八二四)の事件についてはつぎに紹介するが、その際、「この組は鈴木新田の一つとはいっても一里も離れて、上鈴木新田とも呼んでおり、御用や村用も多く、筆算ができるものでなければ役目は勤まらない」としている(史料集一六、二一六頁)。上鈴木は、名主の居住する下鈴木とは一里(約四キロメートル)の距離があり、何かにつけて御用や村用を勤めることは大変だったのだろう。名主宅が村の役宅であったこの時代、役宅から離れていた百姓は、村の用事を一つ一つ済ませるにも面倒が生じたに違いない。支配のうえでは鈴木新田という一村であったとはいえ、ほかの組頭とも離れた地域に位置し、二五軒の家を代表する上鈴木の組頭の業務は大変だったのであろう。