四月になって、深大寺村(じんだいじむら)(現調布市)名主の扱いなどもあり、出入は内済となった。内済証文には、小前たちの訴えとは少し異なった、佐五兵衛の主張も記されている。その内容は以下の通りであった。「上鈴木の地域は名主の居宅から一里以上も離れ、御用や村用も多い。また組頭役は無給同様で勤めが大変だが、小前たちがどうしてもと頼んだ結果、佐五兵衛が組頭役を引き受けることになった。小前たちが言うような、五郎兵衛の忰が成長するまでの組頭役だったということや、出入の詳細については全くの偽りである。そもそも佐五兵衛自身、酒癖が悪いことを自覚し、金比羅山に願をかけるために髪を少々切って納めたのであり、禁酒堅めとしてほかの百姓に振る舞いをしたのである。飲み仲間の前だったため、ふざけて髪で金子を借りたいと言い、また槍で突っ掛かけるなどしたが、いずれも酒に酔ったためである。私も近年は病気がちで、二、三年のうちには組頭を退役したいと名主へも言っていた。しかし今回の出入によって退役になったとなれば、かえって世間体も悪くなるので、すぐに退役するわけにはいかない」。以上のような佐五兵衛の主張が受け入れられたのであろうか。内済の結果、佐五兵衛は事件とは別に、追って退役を申し出た上で、組頭の跡役を決めることになった。(史料集一六、二一六頁)
この出入では、組頭と小前百姓の主張が全く異なっていることにも注意したい。近世では、村で出入が起こっても、できるだけ内済によって解決しようとしたのであり(本章第七節)、内済証文からは、どちらの主張が正しいのかはっきりはわからない。しかし出入の双方が、ある程度妥協するかたちで解決がはかられたのであろう。佐五兵衛は、この出入で退役になれば世間体が悪くなるとしており、小前百姓もこれに理解を示したのであろうか。同じ組内のことでもあり、事件をなんとか「丸くおさめる」ことで、村内の安定をはかろうとしていたのであろう。また名主利左衛門が、同じ村役人同士である組頭を責めることはできないと、消極的ともいえる態度を示していることも興味深い。利左衛門は鈴木新田の開発を行った由緒を持つ名主家だが、そのことで組頭に対して強圧的な態度を取るようなことはなかったのである。村役人の関係、そして村運営の面においても、平穏を求める名主の率直な思いであったのだろう。
図2-5 上鈴木の絵図
「(水車場所絵図)」(史料集26、p.126)