一八世紀半ば以降、野中新田善左衛門組は善左衛門が名主を勤めていた。元文元年(一七三六)の新田検地実施直後、善左衛門が名主役を召し上げられてから、善左衛門組の百姓たちが再三、善左衛門の帰役を願っていたように(第一章第二節4)、善左衛門組の名主は開発人である善左衛門以外にはないと考えられていたのであろう。時期はくだり、慶応二年(一八六六)八月、善左衛門死去後の名主役について善左衛門組の小前百姓一同が相談した結果、善左衛門の忰弥一郎にしたいということになった。ところが弥一郎自身はまだ少年であったため、伯父の杢太郎が後見することになった。杢太郎は「至極貞実」、すなわちたいへん真面目な人物であり、筆算も昔から行っていた。そして弥一郎が成人になるまでの間、弥一郎を「喜左衛門」と改名し、名主跡役にした。もし年貢不納などが起こった場合も小前百姓と村役人一同で責任を持つ、ということであった(史料集一八、一四九頁)。実際、明治三年(一八七〇)四月、組頭の儀兵衛が病気のために退役し、その跡役を助右衛門と仁左衛門の二名が年番で勤めることを品川県役所へ願った際には、「名主弥一郎後見杢太郎」の署名捺印があり、その後に「名主弥一郎」が名を連ねる形式となっている(史料集一八、一五〇頁)。開発人の由緒を持つ家は、名主を勤めるべき特別な家と考えられていたのであろう。
文久二年(一八六二)には、善左衛門組の百姓が、善左衛門が馬を用いて通行するときには不都合がないよう、百姓の所持地内へ「御勝手次第」、すなわち自由に通行して構わないという証文を提出している(史料集一六、二八〇頁)。善左衛門に配慮した、興味深い証文である。