名主善左衛門と「堀端」の百姓

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鈴木新田「上鈴木」と同様、野中新田善左衛門組の「堀端(ほりばた)」は「堀野中」とも呼ばれ(第一章第二節4)、名主の居住する「本通り」からは離れた位置にある。そのため堀端の組頭は、とくに新田開発当初、ある程度の権限を持ち、名主のように堀端をまとめていたようである。そのために問題が起こることもしばしばであった。享保二一年(元文元年・一七三六)には善左衛門組の絵図・帳簿の作成方法をめぐり、堀端の組頭と名主善左衛門とで意見の相違が発生していたが(第一章第二節4)、近世後期にも、堀端の百姓二三軒と名主善左衛門との間で出入が起こった。天保一二年(一八四一)閏正月のことであった。
 このとき作成された証文には、善左衛門組は小前百姓五〇軒があり、そのうち二三軒は名主の居住する地域からは「半道余」(約二キロメートル)も離れて、「堀端」と呼ばれていること、そのため年寄の喜兵衛が諸事について取り調べて、名主へ報告してきたことが記されている。ところが、近年になって名主善左衛門が「役威(やくい)」、すなわち名主としての威光を背景にして不法を働きはじめたとして、堀端の喜兵衛を代表として出入が起こったのである。この出入では、「小前五〇人のうち二七人には不都合を言う者はいない。喜兵衛が小前の気持ちを惑わせて出入を企てた」という善左衛門側の主張もあり、善左衛門の居住する「本通り」の二七人の百姓と、堀端二三人の百姓とで意見や立場の違いが存在していたことがわかる。一方で善左衛門も、堀端の百姓との連絡がうまくいかなかったことを認めている(史料集一六、二六三頁)。同じ組(村)ではあるが、地理的にも隔絶した「堀端」の百姓と名主の間には、開発期以来の意識の食い違いが引き続き存在していたようである。