野中新田与右衛門組の元名主

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野中新田与右衛門組の名主は、その名が示す通り、当初は開発人の一人である与右衛門が名主を勤めていた。ところが与右衛門自身は、家守(やもり)作左衛門を新田に置いたまま、出身地の上総国(現千葉県)に居住を続ける状態であった。これを原因として、宝暦七年(一七五七)、土地の所持をめぐる出入が起こった。与右衛門は所持地と家財を名主となった市右衛門へ売り、市右衛門は地主として、百姓左兵衛へ金一一両でこれらを売り渡した。ところが、田地を永代売りしたわけではなく、与右衛門は病気で、医師にかかるため上総国市原郡五井村(現千葉県市原市)へ居住していたのであり、畑は市右衛門が預かっているだけだという。訴えを起こしたのは与右衛門組の組頭と百姓代で、彼らが直接に問題にしていたのは、名主市右衛門の行為であった。開発人であったもとの名主が家守を置いたままで、すでに開発場にいないにもかかわらず土地の所有権を持っていたこと、そのことで、当時の名主市右衛門が勝手な行動をしていると、百姓たちは主張したのである。
 元名主であり、組名にもなっていた「与右衛門」であるが、百姓たちには、名前だけが残る異質な存在として考えられていたのであろう。また村内の土地所持者が、遠く離れた村に居住していることへの違和感もあったと考えられる。