開発人の一人であった与右衛門は、開発後の早い段階で村からはすがたを消した。その後、与右衛門組の村役人は、開発に直接かかわったか、あるいは開発初期から居住していたと考えられる「草分け」的な百姓が年番で勤めていた。そのうちの一人である九郎兵衛が、名主役を勤めていた定右衛門を相手取って出入を起こした。天保一一年(一八四〇)正月のことである。与右衛門がすでに村にいないにもかかわらず、組名が「与右衛門」組のままであることに対する違和感から発生した問題であった。村の百姓一同が相談し、「定右衛門組」に変更しようとしたのである。しかし結局は、これに不承知の百姓がいたため、取りやめになっている(史料集一六、二五九頁)。
開発人がそのまま村に居住している場合、その存在感は、ほかの百姓とは一線を画す強いものとなりえたであろう。ところが与右衛門のように、開発人が村からいなくなってしまった場合には、村内にはよりどころとなる存在がおらず、百姓相互の関係に不安定さをもたらす要因になったのではないか。