すでに述べてきたように、村では名主・組頭・百姓代の、いわゆる「村方三役」のみが村の運営にかかわっていたのではなく、また「村方三役」が必ず置かれていたわけでもなかった。大沼田新田では、組頭はほとんど置かれず、年寄が「公的な」村役人として設置されていた。そもそも「年寄」とは、「老巧者」あるいは「おもだち者」などの意味を持つことばであるが、実際に村役人の名称として使用されることもあった。村役人としての年寄は、名主につぐ地位を持ち、名主と同様に年貢勘定など村の実務に携わっていた者もいたのである。
小川村の年寄は小川新田の名主を兼帯し、鈴木新田では開発の最も初期の段階で入村した百姓たちが年寄とされ、大沼田新田では開発人の一人である伝兵衛家が年寄となっていた。年寄は、組頭と同義の位置づけをされる場合もあったが、新田村においては、開発人であること、またそれにつぐ、村の草分け百姓であることが基準となっていた。すわなち、広い意味で開発の「由緒」を持つ百姓が、「年寄」であったといえるだろう。
鈴木新田の年寄は、彼らののちに入村した百姓とくらべ、新田開発に対してより強い思いを持っていた(第一章第二節3)。このことが示すように、新田村の年寄は村運営に携わりながら、新田開発初期から、村の存続、安定化の成否を握っていたといえる。