小川村では、延享二年(一七四五)、組頭兵左衛門とその忰兵蔵が組頭役の退役を願い出た。願い出た先は名主小川家である。村役人決定と退役についての興味深い内容がふくまれているので、その内容を紹介しよう。
「兵左衛門家は小川家の先祖の代から、祖父が組頭を命じられて勤めてきた。しかし両親は高齢となり、病身にもなっている。さらに兵蔵の女房が死去してしまい、幼い子供を育てることが難しくなった。そこで昨年、組頭の退役を申し入れたが、考え直して欲しいと言われた。しかたなく、代官伊奈半左衛門役所へも願い出たが、小川家が判断することであると言われて取り上げられなかった。そこでまた、何度も小川家へ願ったところ、昔からのしきたりであるから聞き入れがたいが、父母への「孝養(こうよう)」、親に孝行を尽くすということであれば、事情はちがうということで退役を認めてもらった。名主や組頭仲間、そして組の者たちにも申し訳ない。また組頭跡役については誰に命じられてもかまわない。」
こののちに作成されたと考えられる、代官伊奈半左衛門役所への願書には、名主弥次郎も名を連ねている。願書によれば、幼い子供の面倒をみる者がおらず、御用で出勤することは心許ないため退役したいという理由も述べている。
本節で述べたように、小川村では、組頭役の任命は小川家によって行われ、その意向が重視されており、また「しきたり」ともされて、簡単には交替できなかった。また支配代官も、名主の判断することであるとして、名主の意向にしたがうよう促していた。しかし名主弥次郎は、両親への孝行という事情であるから、今回は特別に退役を認めるという判断をしたのである。
兵蔵は、両親の世話と幼い子供を一人で育てていくこと、さらに組頭役を勤めることに苦慮し、これを理解した名主によって、組頭の退役を認められたのであった。親への孝行のためであれば認めるとした名主弥次郎の真意はどこにあったのだろうか。組頭役を替えるのは特別であるということだったのか。それとも、親孝行の大切さを百姓たちに示す気持ちもあったのだろうか。
図2-6 組頭退役願
延享2年「一札之事」
(史料集18、p.106)