近世の百姓は幕府をはじめとする領主に対し、今日の租税にあたる年貢(ねんぐ)を納めていた。年貢を納入したり、取り立てたりすることは、百姓と領主の最も基本的な関係であるが、このことについて、かつてはつぎのように説明されることが多かった。たとえば、『小平町誌』では、江戸時代の領主は百姓から年貢を取れる分だけ取った。だが取りすぎると百姓が潰れ、双方が共倒れになる。だから、百姓がどうにか生活できる程度を残すように取ったのであり、余さず倒さずということが領主にとって最も大切な方針であったという趣旨の説明をしている。つまり、百姓にとって年貢を納めるということは、相当重く、しかも一方的な負担で、百姓は領主の過酷な支配下に置かれていたというのである。
しかし、両者の関係に対するこのような認識は、近年見直しが進められてきている。それは、年貢を徴収する領主の側にも一定の責務が求められたことを重視する、というものである。すなわち、領主は年貢を取り立てる前提として、大河川の治水工事など農業基盤の整備や、不作時の困窮百姓救済(「御救(おすく)い」という)、さらには武力を背景とした領内の平和維持などにより、百姓の生活を保障する責務を負っていた。その代わりに、百姓は領主に対し年貢を上納していたというのである。このように、百姓と領主の関係とは、それぞれが互いに対して責務を負う双務的なものであり、百姓が領主に年貢を上納することも、負担には違いないけれども、一方的なものではない、百姓の果たすべきつとめであったのである。