図2-7 享保19年10月「寅御年貢可納割附之事」(史料集13、p.312)
これは、代官上坂安左衛門政形(うえさかやすざえもんまさかた)が享保一九年(一七三四)の年貢を小川村に賦課した年貢割付状であるが、まず注目したいのは四角で囲んだ個所である。「納合」とは、当年に小川村全体で納めなければならない本年貢や小物成、六尺給米・伝馬宿入用の合計のことで、それは「米」一石七斗四升八合、「永(えい)」一六三貫五五四文とある。このほかに、「荏」六斗七升弐合、「大豆」一石三斗四升五合を高掛物として納めることとされていた(「荏」「大豆」「米」は現物でなく、いずれも銭で納めていた)。補足すると、銭に用いられている「永」という単位は、中国からの輸入銭である永楽通宝(えいらくつうほう)のことで、この段階では流通していなかったが、貢租や物価を表示し、金と銭を換算するための単位として用いられていた。
つぎに、年貢割付状のあて名をみよう。左下に小さく「右村名主・組頭・惣百姓(そうびゃくしょう)」と書かれているのが、この文書のあて名である。名主・組頭は村役人、惣百姓は村役人以外のすべての百姓ということであるから、この年貢割付状はまさに、小川村全体にあてて出されていたことになる。年貢の取り立てにあたった支配役人の代官は、年貢割付状により、村に対し年貢を課していたのである。
これらのことは、村から年貢がすべて納められた際に受領証として、代官から出される年貢皆済目録(ねんぐかいさいもくろく)にも当てはまる。したがって、年貢は村を単位に賦課され、取り立てられていたのである。他方、個々の百姓に対する年貢の割り掛けや取り立ては、村に任されていた。すなわち、領主への年貢納入は、百姓の連帯責任で、村として請け負われていたのであり、それは法令の順守などとともに、村請制の重要な機能の一つであった。支配にあたった代官は、小川村、小川新田、野中新田与右衛門組、同善左衛門組、鈴木新田、大沼田新田、廻り田新田といった村々の一定の自治に依拠して年貢を取り立てていたのであり、このことは、当時の百姓と領主の関係が、村を介してのものであったことをよく示している。