表2-6 小川村の反当永の変遷 | |||||||||||||
年代 | 古新田 | 寅開 | 亥開 | 巳開 | 辰改 | ||||||||
下畑 | 下々畑 | 屋敷 | 下畑 | 下々畑 | 屋敷 | 下畑 | 下々畑 | 屋敷 | 下々畑 | 萱畑 | 畑 | 畑 | |
寛文8 (1668) | 11 | 8 | 26 | ||||||||||
寛文12(1672) | 30 | 23 | 50 | ||||||||||
延宝4 (1676) | 34 | 27 | 59 | 29 | 22 | 44 | |||||||
延宝8 (1680) | 28 | 20 | 76 | 31 | 26 | 60 | |||||||
貞享元(1684) | 35 | 27 | 80 | 27 | 20 | 65 | 23 | 15 | 35 | ||||
貞享5 (1688) | 45 | 35 | 80 | 30 | 20 | 70 | 20 | 15 | 35 | ||||
元禄5 (1692) | 50 | 38 | 82 | 35 | 23 | 70 | 23 | 17 | 40 | 15 | 10 | ||
元禄9 (1696) | 46 | 34 | 82 | 31 | 19 | 68 | 19 | 13 | 38 | 11 | 10 | ||
元禄13(1700) | 33 | 25 | 82 | 20 | 13 | 68 | 16 | 9 | 38 | 9 | 10 | ||
宝永元(1704) | 45 | 35 | 82 | 32 | 20 | 70 | 20 | 13 | 40 | 11 | 10 | ||
宝永5 (1708) | 50 | 40 | 82 | 37 | 25 | 70 | 25 | 18 | 40 | 15 | 16 | ||
正徳2 (1712) | 55 | 45 | 82 | 42 | 30 | 70 | 30 | 23 | 40 | 20 | 16 | 21 | 18 |
享保元(1716) | 75 | 61 | 89 | 62 | 46 | 76 | 50 | 39 | 46 | 36 | 19 | 23 | 20 |
享保5 (1720) | 65 | 55 | 90 | 53 | 40 | 76 | 51 | 32 | 46 | 30 | 15 | 23 | 20 |
単位:文 |
この表2-6は、開発されて間もない段階の寛文八年(一六六八)から享保五年(一七二〇)までの期間における、小川村の一反あたりの年貢額(永貫文)を示したものである。小川村の土地は、開発年次を基準とした区別があり、「古新田」は寛文九年、「寅開」は延宝二年(一六七四)、「亥開」は天和三年(一六八三)、「巳開」は元禄二年(一六八九)にそれぞれ検地を受け、年貢が課されるようになった土地、「辰改」は正徳二年(一七一二)から暫定的な額の年貢が課されるようになった、開発されたばかりの土地である。また、屋敷や畑、畑のなかでも下畑や下々畑といった土地の等級の区別も存在した。この表には、小川村の一反あたりの年貢額がこうした、土地の開発年次や等級の区別に沿って定められていたことが示されている。
たとえば、貞享元年をみると、「古新田」の下畑は一反あたり永三五文、下々畑は二七文、屋敷は八〇文、また「寅開」の下畑は一反あたり永二七文、下々畑は二〇文、屋敷は六五文、そして「亥開」の下畑は一反あたり永二三文、下々畑は一五文、屋敷は三五文とされている。つまり、開発年次が古く、等級の高い土地ほど、一反あたりの年貢額は高く設定されている。このように、土地の等級の高低のみならず開発年次の遅速が、一反あたりの年貢額に反映されていることは、小川村に特徴的にみられることである。
それでは、一反あたりの年貢額(厘取法では石高に乗じる年貢率)は、どのように決められたのか。その方法には、検見法(けみほう)と定免法(じょうめんほう)の二つがあった。まず、検見法とは、毎年秋に支配役人が来村して作柄を調査し(この調査を検見という)、それにもとづいて一反あたりの年貢額を決定する方法である。一方、定免法とは、過去数年間の年貢額の平均を基準にして、年貢額を前もって決定し、これを作柄の豊凶にかかわらず一定期間固定する方法である。この固定期間を定免年季(じょうめんねんき)といい、定免年季が明けると更新されることもあった。つまり、検見法では年貢額が毎年変動し、定免法では年貢額が一定期間固定されることになる。そうだとすれば、小平市域の村ではどちらの方法がとられていたのか。小川村を例にみてみよう。
図2-8 小川村の年貢額(永)の推移 各年の年貢割付状から作成。 |
この図2-8は、小川村の年貢額の推移を示したものである。一八世紀前半、享保五年頃までは年貢額の高下が激しいこと、一方、享保九年頃からは年貢額がほぼ一定になることがよくわかる。本図では、四年間隔で年貢額の推移を示しているが、当村では享保七年まで検見法が、同八年から定免法がとられた。また、検見法がとられた期間で、年貢額が激しく高下することは、年貢を取り立てる前提となる当村の生産が未だ不安定だったことを意味するものである。よって、享保八年以降定免法がとられ、しかも、それまでよりも高い水準で年貢額が固定されたことは、当村の生産がようやく安定してきたことを示すといえる。このように、生産が軌道に乗るのを待って定免法に切り替えられるということは、小川村以外の、享保期に開発された小平市域の他村にもほぼ当てはまる。したがって、小平市域の村々の年貢量は、反取法と定免法とにより決定された期間が長かったことになる。